神保町時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/06 01:59 UTC 版)
1901年(明治34年)4月1日に中田重治とチャールズ・カウマンが神田神保町の中央福音伝道館内に聖書学校を創設する。最初の校長は中田重治であった。最初の生徒は、栗原春吉(秋山由五郎の弟)、野村与市、伊中小一、鈴鹿正一、奥田常三郎(奥田耕天の父)、佐治とめであった。 5月に松江より奥田の友人米田豊が入学した。7月にバックストンの弟子であった笹尾鉄三郎が淡路島から来て、後に初代院長になった。10月には三谷種吉が松江を引き上げて、上京して聖書学校で音楽を教えた。修養生は勉学だけではなく、熱心に伝道した。 1902年(明治35年)には三谷が修養生で福音音楽隊を組織して東京で伝道した。また、チャールズ・カウマンが福音伝道隊を組織して、5月6月には東北・北海道を伝道した。8月に弘前で伝道した時には、中田の親戚で後の日本メソジスト教会監督阿部義宗が回心した。1902年6月にはアーネスト・キルボルンが加わったが、三谷は1902年末で教師を辞めて、日本組合基督教会の牧師になった。しかし、三谷は1903年(明治36年)11月には再び参加して、聖書学校で聖書と音楽を教えた。 1903年6月には、エール大学出身の武田駒吉が来て、9月1日より組織神学を教えた。この頃修養生は、日曜日と月曜日を除く、午前9時から12時まで勉強した。旧約聖書と新約聖書と組織神学の代わりにウェスレーのキリスト者の完全で学んだ。 1月28日に淡路町に大きな西洋館を購入して、婦人舎兼伝道館にした。神保町の中央福音伝道館は男子宿舎兼聖書学校になった。
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