神保氏の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 16:09 UTC 版)
長職の反上杉路線は長城に継承されたが、天正4年(1576年)、足利義昭により第三次信長包囲網が形成されると、上杉家は反織田信長の立場を鮮明化し、北陸地方へ大規模な侵攻を行った。この際に増山城は攻略され、長城の消息も途絶えてしまい、ここに長職の再興した神保氏嫡流は滅亡した。織田氏に仕えた嫡子長住は、一時は富山城主に返り咲いたが後に信長により追放され、庶流の神保氏張が後に佐々氏、次いで徳川氏に仕えている。
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