第三次信長包囲網
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
詳細は「信長包囲網#第三次包囲網」を参照 天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。 4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀・細川藤孝を指揮官とする軍勢を大坂に派遣し、本願寺を攻撃させた。しかし、紀州雑賀衆が本願寺勢方に味方しており、5月3日に塙が本願寺勢の反撃に遭って、塙を含む多数の兵が戦死した。織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した。5月5日、救援要請を受けた信長は動員令を出し、若江城に入ったが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった。やむなく5月7日早朝には、その軍勢を率いて信長自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺勢に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢との連携・合流に成功し、本願寺勢を撃破し、これを追撃。2,700人余りを討ち取った(天王寺砦の戦い)。 信長は6月6日に一旦京都に戻るが、折しも興福寺において次の別当を巡って尋円と兼深の間で相論が発生して、双方とも朝廷に訴え出ていた。信長の元にも双方から訴えがあったため、信長は前述の四人衆と相談の上で個人名を上げるのを避けたものの藤氏長者である二条晴良が興福寺の伝統に基づいて任命にすべきと晴良に伝え、これを尋円の任命と受け取った晴良はその手続を取った。しかし、兼深は信長の意見は自分を任じる意向なのに晴良がそれを曲げていると主張し、信長の意見が抽象的でその意味を解しかねていた正親町天皇や四人衆はそれを受け入れてしまった。しかし、安土城に帰ってから報告に訪れた四人衆からそれを聞いた信長は自分の意見が否定されたと激怒して、堀秀政らを興福寺に派遣して事実関係を再確認した上で、滝川一益と丹羽長秀を上洛させて改めて朝廷に尋円の任命を奏上して、四人衆をしばらくの間逼塞処分とした(天正4年興福寺別当相論)。 この頃、従来は信長と協力関係にあった関東管領の上杉謙信との関係が悪化する。謙信は天正4年4月から石山本願寺との和睦交渉を開始し、5月に講和を成立させ、信長との対立を明らかにした。謙信や石山本願寺に続き、毛利輝元・波多野秀治・雑賀衆などが反信長に同調し、結託した。 天王寺砦の戦いののち、佐久間信盛ら織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し、物資を入れぬよう経済的に封鎖した。ところが、7月13日、毛利輝元が石山本願寺の要請を受けて派遣した毛利水軍など700~800隻程度が、本願寺の援軍として大阪湾木津川河口に現れた。この戦いで織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。 このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。この年の冬には、天皇の安土行幸が計画されており、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった。これに先立って、正親町天皇が誠仁親王に譲位し、親王が新たな天皇として行幸する予定だったという。しかし、このときは譲位も安土行幸も実現しなかった。
※この「第三次信長包囲網」の解説は、「織田信長」の解説の一部です。
「第三次信長包囲網」を含む「織田信長」の記事については、「織田信長」の概要を参照ください。
- 第三次信長包囲網のページへのリンク