第三次包囲
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「シュヴァイトニッツ包囲戦 (七年戦争)」の記事における「第三次包囲」の解説
オーストリア軍の指揮官エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドンは1761年9月にシュヴァイトニッツ要塞を再び包囲した。9月30日、1757年の包囲を成功させたカール・フォン・アマダイ(ドイツ語版)はクンツェンドルフ・バイ・シュヴァイトニッツ(英語版)の村で集結し、翌10月1日の朝2時に4列で要塞を強襲した。アマダイ軍は激しい抵抗をはねつけてアウトワークを占領、ランパート(英語版)も登りきった。守備軍の指揮官レオポルト・フォン・ツァストロー(ドイツ語版)は降伏せざるを得なかった。戦闘によりプロイセン軍は捕虜3,776人、負傷者1,000人以上を出し、大砲211門と大量の食料と弾薬を奪われた。
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第三次包囲
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「コルベルク包囲戦 (七年戦争)」の記事における「第三次包囲」の解説
1760年にロシアのポンメルンにおける春季攻勢を指揮したトートレーベンが反逆罪を犯してフリードリヒ2世にロシアが1761年に三たびコルベルクを包囲しようとする計画を明かした。フリードリヒ2世は要塞への補給を命令、メクレンブルクでスウェーデン軍と戦っていた フリードリヒ・オイゲン・フォン・ヴュルテンベルクを引き上げさせた。 ヴュルテンベルクは7月4日にコルベルクに着き、増強された守備軍1万2千を指揮した。ロシア軍の指揮官ピョートル・ルミャンツェフ(英語版)は6月23日に近くのケスリーンで軍を止め、補給を待っていた。ヴュルテンベルクは時期が合うとルミャンツェフを攻撃するつもりでいたが、フリードリヒ2世に危険すぎるとして却下された。8月中旬に援軍3,000がルミャンツェフと合流すると、彼は22日にコルベルクを包囲した。 この時点ではロシア船23隻がルミャンツェフを支援しており、これにスウェーデン船8隻が後に加わった。ロシアとスウェーデンの砲撃は8月25日から9月25日まで続いた。9月18日、ルミャンツェフはヴュルテンベルクの守備軍を強襲したが、3,000の損害を出しただけで失敗に終わったため、彼は強襲をやめてコルベルクへの補給を遮断する策に出た。 9月30日、ドゥビスラフ・フォン・プラーテン率いる数千のプロイセン軍がコルベルクを増援し、守備軍が2万人近くになった。10月9日、ロシア艦隊が荒天でロシアへ帰ってしまったためルミャンツェフは艦隊の支援を失ったが、代わりにアレクサンドル・ブトゥルリン(英語版)の増援を得た。グスタフ・ベルク率いるブトゥルリン軍の騎兵部隊はプロイセンの連絡線を切断、出撃したヴュルテンベルクの騎兵部隊も撃破して多くを捕虜にした。 コルベルクの補給が切れそうになったため、プラーテン軍は10月末にベルリンへの撤退を命令された。11月、ヴュルテンベルクは城外のロシア軍を突破してプラーテン軍と合流、後ろからロシア軍に打撃を与えようとした。それが失敗すると、プラーテンは命令通りベルリンへ撤退、ヴュルテンベルクは再びロシア軍を突破して城内に戻ろうとした。彼は何度か試したが、12月12日の最後の試みがコルベルクから南数キロにあるシュピー(英語版)で撃退され、1千の損害を出してしまうと、ヴュルテンベルクは残りの軍勢8千とともにシュテッティンへ撤退した。 12月16日、コルベルクがルミャンツェフに降伏したことでロシア軍はプロイセン領ポンメルン州(英語版)で冬営することができた。また、フリードリヒ2世はプラーテン軍がコルベルクの包囲を解いた後にシュレージエンでの戦闘に加勢することを期待していたが、ルミャンツェフ軍がプラーテン軍を釘付けにしたことでそれが出来なくなり、プラーテン軍が離れる頃にはシュレージエンに加勢しても戦況にさほど影響できなくなった。そのため、フリードリヒ2世は代わりにベルリンへ戻るよう命令した。
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