第五次包囲戦の前触れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:33 UTC 版)
「ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年)」の記事における「第五次包囲戦の前触れ」の解説
アルフォンソ11世は、第三次包囲戦でムーア人に奪取されてすぐに、1333年の第四次包囲戦でジブラルタルを奪還しようとしたが、2ヶ月の包囲戦の末に撤退させられた。平和は一時的に回復したが、停戦は4年後の1338年に解消された。 1339年に紛争が再開され、ムーア人は大敗を喫した。アブー・マーリク・アブドゥルワーヒド(英語版)率いるマリーン朝軍が1339年にキリスト教国との戦いで壊滅し、グラナダのユースフ1世とマリーン朝のアブー・アルハサン・アリー率いる大軍がサラードの戦い(英語版)でカスティーリャとポルトガルの軍に壊滅させられた。この戦いはレコンキスタにおいて最大規模であり、双方の軍でそれぞれ15万人から20万人いたとされ、ムーア人側だけでも死者が6万人いたことが確認されている。ムーア人が敗北してアンダルシアが非常に脆弱になったものの、キリスト教国は優勢の時に攻めず、結果的にムーア人に軍を再建する時間を与えたことになった。
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