第五次シリア戦争(前202年 - 前195年)
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「シリア戦争 (プトレマイオス朝)」の記事における「第五次シリア戦争(前202年 - 前195年)」の解説
紀元前204年、プトレマイオス4世が急死し、プトレマイオス5世がわずか4歳で即位すると、エジプト宮廷では権力闘争が触発した。葛藤は宰相のアガトクレスとソシビオスにより先王の王妃であり姉のアルシノエ3世が殺害されたことから始まった。ソシビオスの最後は不明だが、アガトクレスは怒ったアレクサンドリアの群衆によりリンチを受けるまでのしばらくは摂政職を維持したものと見られる。摂政はある顧問官から他の者に渡り、エジプトは事実上の無政府状態に陥った。 この混乱に乗じて、アンティオコス3世は紀元前202年にコエレ・シリアへの侵攻を再開した。彼はすでにマケドニアのフィリッポス5世と協議し、エジプト外のプトレマイオス朝の領土を征服・共有することで合意した。この同盟は長続きしなかったが、アンティオコスはこの地域を急速に席巻した。セレウコス軍はガザでしばらく挫折したものの、紀元前200年夏にヨルダン川上流近くのパニウムの戦いでエジプト軍に決定的な打撃を与えた。 一方、カルタゴを破り、地中海世界の覇権国として浮上したローマ共和国は、フィリッポス5世とアンティオコス3世にエジプト侵攻を断念するようにと要求した。第二次ポエニ戦争を契機に急激に膨張した領土と人口を管理するのに必要なエジプト産穀物の輸入を重視したローマは、エジプトの情勢に敏感に反応した。フィリッポスとアンティオコスの両方とも、エジプト本土への侵攻は念頭に置かなかったため、彼らはローマの要求に素直に応じた。 紀元前198年、アンティオコス3世はコエレ・シリアの征服を完了し、カリアとキリキア一帯に散在するプトレマイオス朝の海岸要塞を襲撃した。激化した王室内部の紛争と共にエジプト司祭らの支援で拡張された南部エジプトでの大反乱は、プトレマイオス帝国全域に混乱と反動を起こした。経済的な問題はプトレマイオス政府にして課税を増大させ、エジプト人の不満をさらに高めた。紀元前195年、プトレマイオス朝は内政に集中するために大幅に譲歩する和約をセレウコス朝と結んだ。第五次シリア戦争の結果、セレウコス朝はコエレ・シリアを所有することになり、プトレマイオス5世がアンティオコス3世の娘クレオパトラ1世と結婚した。
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