第五次侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 00:58 UTC 版)
モンゴルはグユクの死後、後継紛争が終わり、モンケが即位すると、1251年、イェグに頼み、高麗を侵攻した。高麗は戦争を覚悟し江華島を固く守ることになったが、モンゴルはこれを陥落できず、東州、春州、楊根、襄州などを攻撃した後、忠州城に向かった。 このとき突然イェグは病気を理由に帰国したが、途中開京から高麗の撤収要求を受けた。 彼はある程度妥協の姿勢をとり、高宗は江華島から出て昇天府の使臣と会見し、一方で忠州城の戦いも70日間にわたる熾烈な攻防戦の末、モンゴルが不利になり、ついに撤退し始めた。
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