第五次合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 02:06 UTC 版)
川中島の戦いの最終戦である第五次合戦は、永禄7年(1564年)、塩崎の対陣とも言う。上杉輝虎(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は、武田信玄の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣した。川中島に布陣する上杉謙信に対して、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。 上杉輝虎は、関東へ連年出兵して後北条氏との戦いを続けた。後北条氏と同盟する武田氏は常に上杉輝虎の背後を脅かしていた。上杉輝虎の武田信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓った。
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