第五次戦役(253年)
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「合肥の戦い」の記事における「第五次戦役(253年)」の解説
孫権が252年に崩御すると、魏の胡遵・諸葛誕らは呉領の東興などを攻めた。呉の諸葛恪は丁奉・朱異らを指揮して迎え撃ち、魏軍は韓綜・桓嘉が戦死して敗走した(東興の戦い)。 253年、勢いに乗った諸葛恪は魏に侵攻して合肥新城を包囲した。魏の諸将は慌てたが、司馬師は毌丘倹・文欽・張特に持久戦を命じた。彼らは2ヶ月間城を防衛するが、城内では兵の半分が戦死したり病にかかったりして、合肥新城も呉軍に攻め落とされた。張特はこの状況でまともに戦っても勝機は無いと見て、諸葛恪に対し「魏の法では、城を100日守ればその将兵は敵に降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもない。数日したら100日になるので、それから降伏する」と述べた。諸葛恪はこの言葉を信じ、城への攻撃を中止した。張特は密かに城壁を修復し、呉軍に対し徹底抗戦を始めた。諸葛恪はこれに激怒して城を攻めた。 合肥新城は100日経っても攻め落とせなかった。同年7月、魏の太尉の司馬孚が東征して合肥新城の救援に赴くと、呉軍内部で疫病が流行り始めたこともあり、諸葛恪の軍は撤退し8月に呉に帰還した。 毌丘倹は「建国以来、これほど困難な戦はなかった」と上奏し、戦死した将兵の功績を讃え、遺族のために便宜を図ったという。
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