第五次合戦 組討ち説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)
「川中島の戦い」の記事における「第五次合戦 組討ち説」の解説
永禄7年(1564年)8月15日に武田信玄が、安馬彦六を選び、上杉方と組討ちをさせ、その勝負の結果にて川中島の領有権を決めようとの申し入れを行わせた。上杉方は、直江山城守の取り次ぎで上杉謙信に、明日は組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたいとの信玄の言葉を伝え、謙信も承諾し、翌日12時に組み討ちをすることになった。8月16日に、武田方から安馬彦六、上杉方から長谷川与五左衛門基連が選ばれ組討ちを行った。結果、長谷川与五左衛門基連が安馬彦六の首を取り、以後越後領となり、争いは終結したとする古文書も存在する。
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