第五次川中島の戦い
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永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣したが、信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。
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第五次川中島の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
永禄7年(1564年)4月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。その間に信玄に信濃国水内郡の野尻城を攻略されたが奪還し、8月には輝虎は信玄と川中島で再び対峙した(第五次川中島の戦い)。しかし、信玄が本陣を塩崎城に置いて輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。 これ以降、輝虎と信玄が川中島で相見えることはない。川中島の戦いにおいて、信濃守護を兼ねる信玄の使命である信濃統一を頓挫させ、信玄の越後国侵攻を阻止することに成功した。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみで、村上氏・高梨氏らの旧領を回復することはできなかった。 10月、佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため唐沢山城を攻撃し、降伏させると人質をとって帰国した。
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