第四次包囲とは? わかりやすく解説

第四次包囲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/05 15:07 UTC 版)

シュヴァイトニッツ包囲戦 (七年戦争)」の記事における「第四次包囲」の解説

1762年6月21日、フリードリヒ・ボギスラフ・フォン・タウエンツィーン(英語版)はカール・ヴィルヘルム・フォン・ディースカウドイツ語版率い砲兵隊ルフェーブル(Lefebvre)率い穴掘り部隊を含む21大隊25部隊率いてシュヴァイトニッツの包囲開始し8月7日要塞を完全に包囲した。この時のオーストリア駐留軍は約1万2千人であったプロイセン軍攻撃目標はヤウアーリンガー砦(Jaueringer Fort、シュティーギツァー砦(Stiegitzer Fort)とも)であった8月13日、砦の前にあるログハウス爆発したオーストリア軍はここで要塞陥落危機気づき15日から16日にかけての夜に1,500人でプロイセン軍砲台包囲軍を撹乱ようとした失敗、さらにレオポルト・フォン・ダウン率い救援軍16日ライヒェンバッハの戦いプロイセン軍敗れた一方プロイセン軍19日攻撃仕掛けた失敗オーストリア軍砲台強化したため一時的に撤退した22日攻撃失敗し坑道戦への移行決定された。爆弾室の準備31日完了したが、その間にもオーストリア軍砲撃だんだんと激しくなり、準備は困難を極めた爆弾9月1日爆発し長さ94フィート広さ26フィート大穴開きプロイセン軍にすぐに占領された。プロイセン軍要塞から撃たれ砲火から身を守るために、占領範囲拡大しようとしたが、5日には一旦撤退せざるを得なかった。しかしオーストリア軍にも問題がおき、7日には火薬使用制限した。これはプロイセン軍有利だったが、降り続けたため爆弾開いた大穴溜まり、穴に身を隠せなかったプロイセン兵士大損害を出す結果となった9月10日、もう1つログハウス爆発したが、前進しようとしたプロイセン包囲軍に対しオーストリア軍爆弾押し返した。 このためプロイセン軍爆弾をもう1つ準備し今度16日爆発して長さ60フィート広さ15フィート穴を開けたプロイセン軍はヤウアーリンガー砦からの激し砲撃晒されつつ、2つの穴を繋げる道を築き足場確保成功した21日フリードリヒ2世別の砦に放火しオーストリア軍目を逸らすことを命令作戦失敗したルフェーブル更迭、また大本営をペーテルスヴァルダウ(英語版)(Peterswaldau、現ポーランド領ピエシツェ)からベーゲンドルフ(英語版)(Bögendorf、現ポーランド領ヴィトショフ・ゴルニ)へ移動したその後数日間プロイセン軍は砦に接近するために爆弾何度も爆発させた。10月8日、ヤウアーリンガー砦の火薬庫爆発してプロイセン軍のフォン・モルトケ中隊ザクセン=ゴータ・ウムス・レーベン中隊によりオーストリア軍200人の損害出した同日プロイセン軍爆弾が再び爆発、砦に甚大な損害与えた。 ここにきてプロイセン軍坑道戦成功明らかになり、オーストリア軍指揮官フランツ・フォン・グアスコ(ドイツ語版)は10月9日降伏残ったオーストリア軍9千人とともに捕虜になった包囲中、オーストリア軍では士官80人と兵士2,947人が死亡した

※この「第四次包囲」の解説は、「シュヴァイトニッツ包囲戦 (七年戦争)」の解説の一部です。
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