第四次侵攻
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歴史的に著名なのは第三次侵攻まででその結果ラメイ島の住民のほとんどが殺害もしくは台湾に連行されて文字通りの「根こそぎ」状態にされたものの、実は島内にはわずかながら生き残りが残されていた。1637年に先のラメイ島侵攻にも協力したパングソィヤ社との関係が悪化した台湾政庁は行政長官ヨハン・ヴァン・ディア・ブルフ自らパングソィヤの討伐を決断、11月27日に出発した船団は途中、第三次侵攻から1年余りを経たラメイ島に立ち寄った。そこで、生き残りの原住民63人と会見してこれ以上濫妨を働かないように慈悲を求められた。ブルフもこれ以上の作戦に意味が無いと考え、この要望を受け入れ、翌年9月30日には残されていた駐留兵16名も島から撤退した。ところが、1640年にブルフが退任してパウルス・トラウデニスが長官となると、全原住民の排除が今後の島の経営上必要との意見が出され、12月20日に評議会は再度の侵攻を決定、これに従って12月27日にはリンガ中尉が60名の兵士とともにラメイ島に乗り込み、翌年1月2日には改めて16名の兵士を駐留させ、38名の原住民を連行してタイオワンに帰還した。その後も20名程の住人がいた可能性があるが、連行に関する記事が無い一方で、鄭氏政権もしくは清朝統治初期の段階で琉球嶼を「無人島」とする認識があったことから、オランダ統治時代が終焉した1662年段階で、原住民に相当する島民は島内においてはいなくなってしまったと見られている(このことが、オランダ統治時代に同島が無人になったことを意味する訳ではないのに注意を要する)。なお、度重なる侵攻によって殺害された原住民の遺骸は葬られることもなく遺棄・放置されて朽ち果てたと言われている。これが後の「烏鬼伝承」のモデルになった可能性がある。
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第四次侵攻
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1247年、モンゴルは4度目の高麗侵攻を実施、江華島から松都(開城)への還都、および高麗王室からの人質を再び要求した。アムカン率いるモンゴル軍は塩州に駐屯。高宗王が江華島から松都への帰還を拒むと、全土への掠奪を再開するが、1248年にグユク・カンが崩御したことで、モンゴル軍は一時撤退した。しかし、モンゴル軍の襲撃は1250年まで続く。
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