第四次・五次洛陽侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:18 UTC 版)
10月、河内王劉粲・始安王劉曜らと共に4万の兵を率いて再び洛陽を攻めた。途上で石勒とも合流し、西晋の監軍裴邈を澠池で破ると、進軍を続けて洛川に入った。だが、そのまま洛陽城を攻める事はせず、轘轅関より出ると、梁・陳・汝南・潁川の4郡を攻めた。 311年5月、王弥は劉曜と共に襄城へ侵攻した。同時期、前軍大将將軍呼延晏は漢帝劉聡の命により洛陽へ侵攻していたので、王弥と劉曜は各々軍を率いて合流に向かった。この時、洛陽は酷い食糧不足に陥り、人が互いに食い合うような有様であり、民衆は離散してしまい百官は河陰に逃亡してしまっていた。6月、王弥は洛陽城南の宣陽門に至ると、呼延晏と共にこれを攻め落とした。そして、太極前殿に至ると兵を放って大掠奪を行った。漢軍は懐帝を端門に幽閉し、羊皇后を辱め、皇太子司馬詮を殺害した。陵墓を暴き、宮殿や宗廟を焼き、城府から物資を略奪し、百官および人民3万人余りを殺害した。懐帝は平陽に連行され、この時をもって実質的に西晋は滅亡する事となった(永嘉の乱)。
※この「第四次・五次洛陽侵攻」の解説は、「王弥」の解説の一部です。
「第四次・五次洛陽侵攻」を含む「王弥」の記事については、「王弥」の概要を参照ください。
- 第四次・五次洛陽侵攻のページへのリンク