「ラメイ島」から「小琉球」へ
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「ラメイ島虐殺事件」の記事における「「ラメイ島」から「小琉球」へ」の解説
相当数の原住民を殺害あるいは連行によって一掃した第三次侵攻後、台湾行政政庁はラメイ島の今後の経営について検討を行った。第三次侵攻から半年後の1636年12月28日付けの『東インド事務報告』にはココヤシの栽培のために、300レアルで中国人に賃貸したことが記されている。なお、パウルス・トラウデニス行政長官就任時の月俸が210グルデン(=70レアル)であったことが知られており、かなりの高額であった。だが、ラメイ島の経営は困難を極めたらしく、1645年4月28日付の『ゼーランディア城日誌』に記された賃貸価格は70レアルと大幅に引き下げられている。また、1637年のブルフ行政長官と原住民との会談から第四次侵攻の間の複雑な方針変更の背景にも島の経営問題が関与していたと考えられている。皮肉にも中国人による農場経営が軌道に乗ったことを知ることが出来るのは1661年暮れに鄭成功によるゼーランディア城攻撃に備えてラメイ島から大量のヤシの実やヤギ、野菜などの物資を調達したという『バタヴィア城日誌』の記事によってである。そして、翌年の同城陥落によってオランダの台湾支配は終焉し、鄭氏政権が成立すると、程なく台湾海峡で対峙する大陸側の清朝との対抗上、島から中国系住人を排除して無人化を進めたと見られている。これは鄭氏政権が崩壊した翌年である1685年に清朝の元で作成された『台湾府誌』には小琉球を無人と記しており、オランダ支配最末期にいた筈の中国系住民がわずか20年余りでいなくなるという不可解な状況から推測されることである。清朝支配下に入ると、かつてラメイ島と呼ばれていた島は「小琉球」と呼ばれるようになった。この名称は元は台湾本島自体を指す言葉であったが、清朝が台湾を平定した際に冊封関係にあった琉球王国との区別のために「台湾」を呼称として採用して以来、何らかの事情で無人島となっていたこの島の名称として代わりに用いられるようになった。その後、薪などを採るために少数の近隣住民が住みつく例もあったが、朱一貴が蜂起した際に小琉球に立て籠もった集団があったことから、再び立入禁止とされた。後に禁止が解除されると、中国系の住民がこの島にも移住するようになったが、かつて人がいた痕跡が伺える島に人がいなくなった事情を詳しく知る者は誰もいなかった。これはラメイ島の事件の後に短期間で2度にわたって支配者が変更されたことにより、ラメイ島の事件はオランダ側の記録には残されていても、中国側の記録としては残されなかったことによる。そのため、これを説明するために生み出されたのが「烏鬼伝承」であった。 1894年に書かれた『鳳山県采訪冊』の「小琉球」(巻2・地輿2・諸山)の記事には島に村落が6ヶ所400戸、人口は2-3千人と現況を伝えた後で次の言い伝えを載せている。 (小琉球の石洞について)伝承によれば昔、烏鬼番と呼ばれる部族がここに集団をなして住んだ場所である(中略)。後に泉州人が彼の地に渡って開墾しようとしたところ、衝突が起こり、泉州人が夜に乗じて火を放ち、彼らは一人残らず焼き殺されてしまった……。 かつて、ここの原住民が石洞に追いつめられて凄惨な方法で殺害された事実を断片的に伝えているものの、オランダ人が行った事実はすっかり消されてしまい、中国系の漢民族(泉州人)による事件に置き換えられてしまっている。この伝承は日本支配下で『台湾地名辞書』(『大日本地名辞書』続編)を編纂した伊能嘉矩らによって継承され、今日でも通説扱いされているのが実情である。
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