第三次侵攻
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1636年6月末、もう原住民がいないと思われたラメイ島内で3名の兵士が惨殺された。これを見たオランダ人たちはこれまでの自分達の残虐行為を棚に上げて原住民を「彼らが殺人を好む習性を持つ」蛮族であるとして徹底して原住民を排除する必要があると主張した。7月2日に第三次侵攻が決定され、7日にはリンガ中尉率いるオランダ兵の増援30名に台湾各地の原住民から選抜された300名の協力隊員が島に上陸した。今回は出来るだけ道を切り開いて徹底的に原住民を取り除くことが指示されていた。だが、台湾原住民の協力隊員は土木作業や長期の滞在に不満を抱いたことから、12日には早くも帰還してしまった。それでも原住民30名の首級と捕虜にした青年1名を連れて帰り、またその他の捕虜は協力隊員によって女性や子供も含めて全員処刑されたことが報告された。ところが、その後も原住民の情報が伝えられたために、台湾政庁では力づくの措置のみでは原住民の排除は困難と判断、8月21日に行政長官と評議会は宣撫策への変更を決定した。これはリンガ中尉に少数の護衛と捕虜となった原住民を付けて派遣して身の安全の保障と引き換えに投降を迫ると言うもので、9月9日から実施された。生活・社会基盤を徹底して破壊された原住民は数人が抵抗して殺害された他は、100名以上が投降して、タイオワンに連行されていった。これによって原住民の根こそぎ排除を実現したとして24日には駐留兵を15人に削減した上で撤退した。この年の12月28日付の『東インド事務報告』には554名の原住民を連行し、残り300名余りが殺害されたと記されており、これは11月26日付の『バタヴィア城日誌』の記載とも合致するため、この数字が公式の数字であったと考えられている。もっとも、実際の報告(先の『ゼーランディア城日誌』)などの数字を考慮すれば、死者の数はもっと多かったと考えられている。
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第三次侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 00:58 UTC 版)
この状況を受け、1234年に金を滅亡させたオゴデイは、3度目の高麗制圧を企図し、1235年から慶尚道・全羅道全域で掠奪が開始された。モンゴル軍は江華島政権および半島本土の山城の攻略を避け、高麗軍の補給を絶つため農地を焼き払う挙に出た。江華島政権は防御をより固めていたが、度重なるモンゴル軍の侵略に対して、抗戦不能に陥りつつあった。 他方の江華島では1236年、高宗王が第2次侵攻の際に戦災で焼失した符仁寺(プインサ)大蔵経の版木の復元を指示。15年の歳月をかけて1251年に経典1,512部、6,805巻を集めた81,258枚の版木が製作された(高麗八万大蔵経)。その後海印寺(ヘインサ)に移され、現在韓国の国宝となっている。 1238年、高麗は再び和議を望むようになり、高麗王室から人質を出すことを条件にモンゴル軍が撤退することとなった。しかし無関係の人間を王室の者と偽って人質に出したため、モンゴル側は激怒し、高麗王室の江華島からの退去、海上のすべての艦艇の一掃、反モンゴル的貴族の差し出しなどを強硬に求めた。しかし、高麗側は王族佺と10人の貴族子弟を人質に出した以外は要求を拒絶した。
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