第四次合戦
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0130以降の第七戦隊や各駆逐艦の砲撃雷撃により、連合軍巡洋艦2隻(パース、ヒューストン)は沈没寸前となっていた。0142、被雷したパースは急速に沈没していった。682名(士官45名、水兵631名とも)の乗組員のうち、ウォーラー艦長を含む353名が戦死(士官23名、兵329名とも)、100名(105名とも)が捕虜生活中に死亡、229人が帰国した。 残ったヒューストンは15ktで走っていたが、機関室への命中弾で機関科兵員が全滅、次々と命中する敵弾により既に主砲は沈黙し、僅かに数門の高角砲が火を吐くだけになっていた。日本軍はこの艦に対し手を緩めず攻撃を続け、ヒューストン艦内は大混乱に陥った。この時点で既に被雷4本以上、被弾50発以上の損害を受け浮いているのが不思議な状態であった。0156、ヒューストンの主砲が沈黙したことを確認した第七戦隊第2小隊(三隈、最上)は砲撃を中止、続行していた敷波を分離してヒューストンに止めをさすことにした。三隈水雷長が「敷波は魚雷を発射していないようだから撃たせてはどうか」と進言した為である。敷波は、0159にヒューストンへ向け九〇式魚雷を1本発射した。ヒューストンは沈没寸前まで機銃で反撃していたので、敷波は更に砲撃を加えた。ヒューストンでは既に艦長A・H・ルックス大佐が戦死しており副長が指揮を代行していたが、敷波の魚雷命中を受けて総員退去命令が下された(総員退去命令後、艦橋への直撃弾で艦長戦死とも)。そして0206、ヒューストンは転覆し、艦尾から沈んでいった。ヒューストンの乗組員は1008名中、368名が日本軍に救助されたが、そのうち76名は収容所内で死亡、266名が戦後帰国した。日本艦隊は救助した捕虜からパースとヒューストンの艦名を知った。
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第四次合戦
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『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。勝沼氏は武田信虎の弟である勝沼信友がおり、信友は天文4年(1535年)に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には府中今井氏の今井信甫が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には信良がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。 川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。 一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみである。そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『勝山記』や上杉氏の感状や近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。
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