第四次川中島の戦いと北条の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
「上杉謙信」の記事における「第四次川中島の戦いと北条の反撃」の解説
この頃、武田勢は北信地方へ侵攻していたが、『甲陽軍鑑』によれば関東から帰国後の永禄4年(1561年)8月、政虎は1万9,000人の兵を率いて川中島へ出陣する(第四次川中島の戦い)。荷駄隊と兵5,000人を善光寺に残し1万4,000人の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、妻女山に布陣する。このとき武田軍と大決戦に及び、武田信繁、山本勘助、両角虎定、初鹿野源五郎、三枝守直ら多くの敵将を討ち取り、総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えたという。 第四次川中島を機に北信をめぐる武田・上杉間の抗争は収束し、永禄後年には武田・上杉間をはじめ東国や畿内の外交情勢は大きく変動していく。 同年11月、武田氏は西上野侵攻を開始し、北条氏康も関東において武田氏と協調して反撃を開始し、政虎が奪取していた武蔵松山城を奪還すべく攻撃した。これを受けて政虎は同月、再び関東へ出陣、武蔵国北部において氏康と戦う(生野山の戦い)。しかし、川中島で甚大な損害を受けたことが響いたか、これに敗退(内閣文庫所蔵『小幡家文書』)。ただし、この合戦で謙信自身が直接指揮を執ったという記録は発見されていない。生野山の戦いには敗れたものの、松山城を攻撃する北条軍を撤退させた。 その後、古河御所付近から一時撤退する(『近衛氏書状』)。その結果、成田長泰や佐野昌綱を始め、武蔵国の同族上杉憲盛が北条方に降ってしまう。政虎は寝返った昌綱を再び服従させるため下野唐沢山城を攻撃するが、関東一の山城と謳われる難攻不落のこの城を攻略するのに手を焼いた。これ以降、政虎は唐沢山城の支配権を得るため昌綱と幾度となく攻防戦を繰り広げることになる(唐沢山城の戦い)。 12月、将軍・足利義輝から一字を賜り、諱を輝虎(てるとら)と改めた。輝虎は越後へ帰国せず、上野厩橋城で越年する。
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