成田長泰とは? わかりやすく解説

成田長泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/24 09:05 UTC 版)

 
成田 長泰
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 明応4年(1495年)?
死没 天正元年12月17日1574年1月9日
改名 長泰→芦伯斎(号)
戒名 蘆伯宗湖居士
墓所 龍淵寺熊谷市
官位 下総守
主君 上杉憲政北条氏康上杉謙信→北条氏康
氏族 成田氏
父母 父:成田親泰
兄弟 長泰小田朝興泰季、善照寺向用斎、太田資顕室、近江守
正室:長尾景英娘・白井局
氏長泰親、泰蔵[注 1]
テンプレートを表示

成田 長泰(なりた ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将武蔵国忍城主。

略歴

成田氏藤原師輔の流れを汲み、代々山内上杉家の被官を務めていた。

明応4年(1495年)頃、成田親泰の子として誕生。当初は関東管領上杉憲政に仕えていた。

天文14年(1545年)4月、父・親泰が没し家督を継ぐと、主家が後北条氏との抗争で衰えていたため、5月には後北条氏に服した。その後、永禄3年(1560年)、関東管領に就任した上杉謙信が関東に進出すると、その配下になる。しかし謙信が小田原城を包囲して後に帰国すると(小田原城の戦い)、北条氏康に降伏し家臣となった[2]

上杉謙信に反旗を翻したのは、一説には鶴岡八幡宮で行われた関東管領の就任式で長泰が下馬をしなかったことで謙信に扇で烏帽子を打ち落とされるという恥辱を受けたため、兵を率いて居城へ戻ったといわれている(『相州兵乱記』)。長泰が下馬しなかったのは成田氏が藤原氏の流れをひく名門で、祖先は源義家にも下馬をせず挨拶をしたという名誉の家門であるので、長泰は古例により下馬をしなかったという逸話があるが、小田原城の戦いの後、隣地である羽生領の帰属を巡って、謙信と衝突したためとも言われている[3]

永禄6年(1563年)、謙信に忍城を攻められて降伏した。このため、隠居を命じられて嫡男・氏長に家督を譲るが、永禄9年(1566年)に氏長を廃して家督を次男・長忠(泰親)に譲ろうとしたために氏長と対立するも、弟・泰季や宿老・豊嶋美濃守らの反対に遭い結局断念して出家し引退した。

天正元年(1574年)、死去。享年79という。

脚注

注釈

  1. ^ 側室・旭の局(曽我刑部丞範祐の娘)の子。成田山泰蔵院を中興開基[1]

出典

  1. ^ 日下部朝一郎 編『熊谷人物事典』1982年、279頁。doi:10.11501/12189729https://dl.ndl.go.jp/pid/12189729/1/159 
  2. ^ 黒田 2012, pp. 59, 99.
  3. ^ 黒田 2012, pp. 112–114.

出典





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「成田長泰」の関連用語

成田長泰のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



成田長泰のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの成田長泰 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS