成田泰季とは? わかりやすく解説

成田泰季

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/13 01:14 UTC 版)

 
成田泰季
時代 戦国時代
生誕 永正13年(1516年
死没 天正18年6月7日1590年7月8日
戒名 月巣義鶴居士
墓所 清善寺(埼玉県行田市
官位 肥前守受領名
主君 成田長泰成田氏長
氏族 成田氏
父母 父:成田親泰、母:長井実治の娘[1][2]
兄弟 成田長泰小田朝興、善照寺向用斎、太田資顕室、成田泰徳
不詳
成田長親
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成田 泰季(なりた やすすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将成田親泰の三男で、兄に成田長泰小田朝興。子に成田長親。受領名は肥前守

生涯

成田親泰の三男として生まれる。兄弟には成田長泰小田朝興、善照寺向用斎、太田資顕室、成田泰徳がいる[3]。『成田系図』によれば兄の長泰や甥の氏長に仕えた宿老であり、軍功で世に名を知られ、成田一門の「脇惣領」と称された[4]

永禄3年(1560年)8月、越後国春日山城主・長尾景虎(後の上杉謙信)による関東出兵の際、長泰は景虎の下に参陣すると[5]、同年11月に岩付城主・太田資正と共に先鋒隊として相模国方面に侵攻した[6]。この時期に作成された『関東幕注文』には武州之衆として長泰と配下の16人の諸将の名が記されているが、その中に見られる「親類 同 大蔵丞」については泰季と比定される[7]

『成田系図』によれば兄の長泰から団扇を授かり、時には兄に代わって軍将を務めることもあり、深谷城主・上杉憲盛との合戦(年次不明)の際には田山豊後守と共に出陣し、勇戦したと記している[4][注 1]

『成田記』によれば永禄8年(1565年)8月、長泰が嫡男の氏長ではなく、末子の泰蔵(若枝丸、内匠)に家督を譲ろうとしたため、忍城内において氏長、宿老の手島美作守、泰季らによるクーデターが起こり、長泰は菩提寺の龍淵寺に蟄居せざるを得なくなったと記されている[10][注 2]

天正6年(1578年)の『成田御家臣分限帳』(柴崎家文書)には、氏長配下の11人の家門侍の一人として「永百貫 成田肥前守」[12]、天正10年(1582年)の『成田分限帳』には「永百貫 成田肥前守泰資」の名が記されているが、いずれも泰季と比定される[7][注 3]

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、当主の氏長は後北条方に加勢し小田原城へ詰めた[4]。『成田系図』や『成田記』によれば、泰季は当時すでに隠居し、所領を嫡男・長親に譲っていたが、氏長の命により忍城の城代を務めた[4][13]。豊臣方の石田三成の率いる軍勢に籠城戦をもって対抗したが、6月7日7月8日)に死去した[14]。75歳没[4]。法名は月巣義鶴居士[14]。『成田記』によれば、仏事は戦いの最中のため隠密に行われ、遺体は忍城下の清善寺に埋葬された[15]

脚注

注釈

  1. ^ 深谷城をめぐっては永禄8年(1565年)2月に憲盛と氏長の間で[8]元亀3年(1572年)8月から天正元年(1573年)2月、同年4月に北条氏政が氏長を支援する形で合戦が行われた[9]。前者は成田氏が上杉氏に従属していた当時[4]、後者は後北条氏に従属していた当時のものである[9]
  2. ^ なお、永禄6年(1563年)閏12月の時点で氏長が当主となったことが見える(『富岡文書』)[11]。また、時期的には後北条勢による忍領侵攻が行われる直前にあたることから(『長楽寺永禄日記』)、歴史学者の黒田基樹は家督相続をめぐる対立ではなく、上杉氏との従属関係の中で、長泰が後北条氏との接近を図ったため事態が発生した可能性を指摘している[11]
  3. ^ 天正10年の分限帳には「永三百貫 成田大内蔵長倫」の名も記されているが、これは泰季の嫡男・成田長親と推定される[7]。なお、泰資および長倫の名はいずれも誤記と考えられる[7]

出典

  1. ^ 黒田 2012、25-26頁
  2. ^ 熊谷市教育委員会 2013、694頁
  3. ^ 黒田 2012、27頁
  4. ^ a b c d e f 行田市史編さん委員会 2012、529頁
  5. ^ 行田市史編さん委員会 2012、321-322頁
  6. ^ 行田市史編さん委員会 2012、319頁
  7. ^ a b c d 市村高男『戦国期東国の都市と権力』思文閣出版〈思文閣史学叢書〉、1994年、289頁。ISBN 4-7842-0855-0 
  8. ^ 行田市史編さん委員会 2012、343頁
  9. ^ a b 熊谷市教育委員会 2013、460-463頁
  10. ^ 小沼、大澤 1980、67-70頁
  11. ^ a b 黒田 2012、36頁
  12. ^ 行田市史編さん委員会 2012、626頁
  13. ^ 小沼、大澤 1980、164頁
  14. ^ a b 行田市史編さん委員会 2012、612頁
  15. ^ 小沼、大澤 1980、167頁

関連作品

参考文献

  • 小沼十五郎保道著、大澤俊吉訳・解説『成田記』歴史図書社、1980年。 
  • 行田市史編さん委員会 編『行田市史 資料編 古代中世』行田市教育委員会、2012年。 
  • 熊谷市教育委員会 編『熊谷市史 資料編 2 古代・中世 本編』熊谷市、2013年。 
  • 黒田基樹 編『論集戦国大名と国衆 7 武蔵成田氏』岩田書院、2012年。 ISBN 978-4-87294-728-1 

成田泰季(なりた やすすえ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 03:27 UTC 版)

のぼうの城」の記事における「成田泰季(なりた やすすえ)」の解説

長親の父親氏長にとっては叔父。長親が唯一頭が上がらない人物で、長親とは正反対気質持ち主不肖息子・長親について不満を漏らしている。過去数度裏切った成田家許してくれた北条家恩義感じており、小田原攻めに際しては、豊臣陣を迎え撃つべきだと強固に主張したが、急に体調崩し、長親が開戦決めた直後死去した

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