成田氏の時代
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この後、羽生城は忍城主・成田氏長の支配下に置かれ、『関八州古戦録』や『北越軍談』によれば成田大蔵少輔、桜井隼人佐、『成田系図』によれば氏長の叔父にあたる善照寺向用斎、田中加賀、野沢信濃が共に城代を務めたと記されている。これらの成田家臣に、『成田分限帳』に記された埴生出雲守、埴生助六郎、岩瀬半兵衛、川俣弥十郎などの在地にとどまった木戸氏の旧臣が従ったものと推測される。 一方、謙信は関東攻略を果たすことなく天正6年(1578年)に亡くなり、家督を上杉景勝が相続すると、翌天正7年(1579年)に甲斐国の武田勝頼と同盟を締結した(甲越同盟)。同年7月、勝頼は上野国に侵攻し、西上野の沼田城、東上野の大胡、山上、伊勢崎などの後北条方の諸城を攻略した。こうした状況の中で上野国に逃れていた木戸氏の旧臣の一部は、御館の乱の余波で混乱の続く上杉氏ではなく、勝頼を頼ったものと推測されている。天正8年(1580年)1月、菅原直則は厩橋にある赤城神社に祈願状を出し、勝頼の下で羽生城の奪回および領地回復を図ろうとしたが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡などにより叶うことはなかった。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、城代の向用斎は羽生城は放棄して忍城に籠城した。忍城は1か月におよぶ籠城戦の末に開城した。
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