戦後の甲越関係と川中島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 02:06 UTC 版)
「川中島の戦い」の記事における「戦後の甲越関係と川中島」の解説
川中島をめぐる武田氏・上杉氏間の抗争は第四次合戦を契機に収束し、以後両者は直接衝突を避けている。上杉謙信は武田信玄の支援を受けた、越中の武将や越中一向一揆の鎮圧に忙殺されることになる。 武田氏は、対外方針を転じ、同盟国であった今川氏と敵対する織田氏と外交関係を深め、永禄8年(1565年)、信長の養女を信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)の妻に迎える。同年10月、今川氏真の妹を正室とする嫡男・義信の謀反が発覚し(義信事件)、永禄11年(1568年)11月、義信正室が駿河へ帰国した。他方、今川氏は、上杉氏と秘密外交を行ったが、これが武田方に露見する。武田氏は、同年12月、駿河今川領国への侵攻を開始するが(駿河侵攻)、これは北条氏との甲相同盟を破綻させ、対上杉の共闘体制も解消される。北条氏は、上杉氏と同盟して武田領国への圧力を加え(越相同盟)、武田氏は、織田氏と友好的関係を築き、上杉氏との和睦を模索している(甲越和与)。 その後、武田氏は、三河徳川家康の領国である遠江・三河方面への侵攻を開始し(西上作戦)、上杉氏とは甲相同盟の回復により本格的な抗争には格っていない。
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