戦後の現地での裁判
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裁判と判決 この事件は、終戦後まもなく、国民政府の瀋陽で開かれた戦犯法廷で裁かれた。日本側ではしばしば総責任者乃至直接実行者とみなされる川上精一大尉、井上清一中尉(当時)をはじめとする軍関係者は終戦までの間に既に他所へ移動しており、終戦時の国民政府による身柄確保を免れたが、現地に留まっていた炭鉱関係の民間人11人が逮捕された。上妻の『撫順秘話』では、関係者らは15年も前の事件であり、当時の軍人らは異動、防備隊幹部もいなくなっており、うやむやになるだろうと思っていたとする。つまり、軍と防備隊が行った事ということで済むと、たかを括っていたと云うのである。逮捕当時の現地警察関係者が残した証言をみると、いったん1946年に調査したものの確たる資料が得られず立件に至らず、1947年にあらためて人員が派遣されて来て、事件当時の資料がないため証人探し主体に切り替えて、それが起訴につながった節がある。1946年に阜新炭鉱測量図などの重要書類焼却にかかわる戦犯容疑で事件当時の炭鉱責任者であった久保孚がいったん逮捕され、その後釈放されたものの、1947年に再び当虐殺事件で逮捕されたことに関し、原勢二は、書類焼却は敗戦で自暴自棄となった一部社員の過失とする。ただし、当時、敗戦とともに日本政府・軍から日本国内はもとより海外の軍・官庁・関係諸機関に至るまで重要書類処分の指令が出て、各地で寧ろ意図的に焼却処理が行われていたことはよく語られることであり、過失による消失というのは額面通りには受け取れない。 1948年1月3日、久保孚ら民間人7人に死刑判決が下された 。軍人以外の防備隊員・警察官等の死刑判決について、上妻の「撫順秘話」で虐殺事件後の死体処理が悪かったという事で死刑になったとされたことにより、日本ではそのように語られることもあるが、実際には、瀋陽での裁判の判決では死体損壊だけでなく計画的虐殺についても証言等により認定されている。(国民政府行政院の調査等、2日目に死体を焼く過程で生きたまま焼かれた者もいたと報告しているとするものもある。上妻が取材で得たのであろう「死体処理が悪かった」という言葉は、本来はその意味だったのではないかとも疑えるが、瀋陽の裁判の判決においては生きていた者まで焼かれたとは記載されていない。ただし、後に中国の共産党政権下で中国人の戦前・戦中における日本協力が問題とされたとき、憲兵隊の通訳であった王長春は、「まだ生きている者がいます」と言ったところ、憲兵隊長から「どうせ守備隊がガソリンで焼き殺す」と言われたとの証言をしている。また、『中国の旅』では、事件生存者となった趙樹林が自身が逃げた時もまだ生きていた者がいて、ほどなく現場に火がかけられたのを逃げ込んだ炭鉱の寮から見たことを証言している。)同年4月19日に7人の刑が執行、残り4人は事件と関係が薄いとの理由で無罪となった。日本人側からは、集落民の殺害はあくまで日本軍守備隊が強行したもので、死刑になった民間人7人についても実際には殺害には責任は無い筈との主張が為されることも多い。事件当時県長の通訳を務めていた于慶級は、ゲリラ襲撃事件直後の対策会議時に川上大尉が住民虐殺を主張したとき、憲兵隊長は賛成、炭鉱側責任者である久保孚や炭鉱労務班長の山下満男は当初反対し、県長と警察署長は意見を述べなかったものの、川上が、「自分が治安の責任者だ、これを実行してまた事件が起これば自分が責任を取る、しかし自分に反対してまた同じ事件が起きた時は反対した者に責任を取ってもらう」と言ったところ、もはや誰も反対しなかったと述べている。于慶級は、その後、中国での政治変動の都度、かつての日本協力を問題にされ、都合3回追及を受けているが、その証言内容は極めて一貫している。判決の認定した、事件に至る事実関係は、概ねこの証言内容に沿っているように見える。また、事件責任者とみなされる立場にある当時県長であった夏宜の証言が自分は後から聞いただけとする内容を主とするのを除けば、憲兵隊通訳の王長春や県公署の林喜岳などの中国人関係者の証言は于慶級の証言と概ね合致している。 虐殺責任者について 于慶級は、虐殺の実行部隊は川上に命じられて3人の小隊長が務めたとした。実行部隊の人数については、200名程度(中隊規模)との説、80名程度との説(複数の小隊規模となる)、実行は井上中尉の独断専行によるものであり井上中尉小隊の40名程度だったとする説など、諸説ある。また、少数の警官・憲兵・通訳が同行していたとの説の他に、相当数(一説には1個中隊規模)の炭鉱の防備隊員が参加、軍に協力していたとの説がある。瀋陽の裁判判決によれば、炭鉱責任者の久保孚は防備隊が虐殺に参加していたこと、また、防備隊員中の証言者が防備隊と警察の参加者がいたことを認めたとする。 瀋陽の裁判の判決では、関東軍の部隊である守備隊の他に、炭鉱の防備隊も虐殺にも参加したとし、日本人である防備隊員からの、防備隊を作ったのは炭鉱責任者の久保の指示である、久保の許可がなければ経費の問題で防備隊は動員できなかった、久保が防備隊の総指揮権を持っていた、現地住民からの事件後に久保とみられる人物が虐殺現場に来て何事か指示をしていたという証言を採用、久保有罪の根拠としている。いったんは虐殺に反対したとしても、結局は、単に軍の意向に屈したというばかりでなく、防備隊を指揮して出動させ、守備隊の虐殺に協力させたこと、(事後であるが)現場に来て監督していたことが判決理由となっており、これらが実際の虐殺の一翼を担ったものと判断されたようである。 ジャーナリストである上妻斉が取材により纏めたと考えられる『撫順秘話』が日本側でもっとも初期の纏まった資料であるが、これは中隊長K大尉(川上大尉)不在、決定・実行の責任者N中尉説をとる。中隊は通常4個小隊からなり、当時4人程度いたのではないかと考えられる小隊長にはNに当たるイニシャルの者はいない。久米庚子も『平頂山事件とその終末』(1973)で、中隊長であるK大尉(川上大尉)は当時留守で、実行責任者をN中尉とし、これは井上中尉のこととする。久米は、この中尉を深刻な神経の持ち主と表現し、軍務に極めて厳しい人であったと聞いていたとする。田辺は、瀋陽裁判時の教誨師である平野一城牧師が井上中尉を深刻な経験の所有者としており、これが自然な表現であること、瀋陽の獄舎で平野と接していた久米が平野牧師の『最後の引揚げ牧師の記録』の執筆に協力したことを理由に、久米が『最後の引揚げ牧師の記録』と『撫順秘話』を参考に自身でも執筆をしたときに、両書の影響を受けて、井上中尉をN中尉としたのと同様に、「深刻な経験の所有者」を「深刻な神経の持ち主」に書きかえたのだろうとしている。たしかに最初の本となる『撫順秘話』には井上中尉にあたる人物がN中尉となっているが、なぜ、両書の影響で「深刻な経験の所有者」が「深刻な神経の持ち主」に変わったとするのかは、不明である。「深刻な神経の持ち主」という表現は、井上中尉の性格が事件の原因であると、ことさら印象づけかねない表現であるが、田辺としては、炭鉱関係の被告人らは瀋陽の裁判での収容時には未だ「深刻な経験の所有者」とだけ言っていたのであろう、したがって裁判前から井上中尉への責任のなすり付け工作が意図的・組織的になされていたわけではないと、主張している趣旨かと思われる。一方で、田辺は、井上が夫人の自決事件について、自身の黒星だった、二度と内地に戻れないだろうと言っていたこと、井上中尉を知る守備隊員から「深刻な神経の持ち主」を裏付ける話をした者がないこと等、井上中尉がまともな感覚の人間であったことを窺わせる話も報告している。 瀋陽裁判の判決はおそらく通訳の于慶級等の証言をもとにしたものだと思われるが、虐殺の主導者を川上大尉としている。虐殺を決めた会議に出席した県長の夏宜は、自身は事件については後から事件を知っただけだと主張し、川上大尉から聞いた話として、犯人として井上中尉とは別の人物である中尉の名を聞いたとしている。中国人研究者である佟逹や佟が中心となってまとめられた撫順市の『平頂山大屠殺惨案始末』等をはじめとする中国側文献の多くは川上大尉主導者説をとるものがほとんどとされる。日本では、小林実がこの川上大尉説をとり、石上正夫も井上中尉の独断専行説を疑う。高尾翆も、襲撃が予想されている時期に守備隊長が不在というのは考えにくい、かりに討伐に出ていたとしても一、二時間で帰ってこれる地域のはずでゲリラの撫順襲撃が予想された時期に3日も不在を続けるというのは不自然とする等の理由で、この説を支持する。澤地久枝は見解を保留している。一方で、日本で最初に平頂山事件のイメージをかたち作った上妻の「撫順秘話」が、虐殺を夫人が自決したことで知られた中尉の暴発としたこと、また、その特異な体験が性格に影響し虐殺に至ったのだろうという見立てが俗耳になじみやすいためか、井上中尉こそが虐殺の主導者だったのではないかとする主張も日本では根強く、田辺敏雄、大江志乃夫、江口圭一は井上中尉主導者説をとっていたとされる。ただし、大江志乃夫の井上中尉説は、田辺の主張を信じて、それを受けたものである。江口圭一の井上中尉説は比較的時期が早く、日本で既に流布していた上妻斉の『撫順秘話』の井上中尉説を著述の時点で単にそのまま踏襲していただけの可能性が高い。森正孝によれば、川上大尉主導者説をとる小林実の長文の論文『「平頂山事件」考』が載った『中国研究月報』1985年9月号のコピーを、元愛知大学教授の野間清の紹介により、江口圭一から平頂山事件について現時点で最も詳細な資料として受取ったという(そのとき、森は江口から特段、川上大尉説を否定されていない)。さらに、森は野間を介して小林と連絡、その基となった、さらに長文の『撫順事件調査(中間)報告書』(1984年12月)のコピーを入手したという。これは中間報告まで2年余をかけ、前後五度訪中、現地の他北京図書館まで資料調査、日本国内では資料収集だけでなく、満鉄撫順会や匿名ながら守備隊生存者からの証言で事実を確定していたものだったという。そこでは、16日朝の会議で、川上大尉が久保炭鉱次長の反対を押しきって見せしめに守備隊と憲兵隊による平頂山住民の抹殺と集落の焼き払いを行うことを決め、後始末に防備隊も協力することに決まって、参加隊員の証言により井上中尉が明確に皆殺しの意図を隊員に伝えてその小隊40名が出動したこと、憲兵隊通訳の証言により川上大尉は憲兵隊隊長小川とともに車で現場に行って参加したことが明らかにされていたとする。 小林実は、古本屋で発見した『満州独立守備隊』という書籍に「戦闘事報」が掲載されており、16日未明の欄に撫順に向かい襲撃してきたゲリラを撃退したこと、その指揮者の欄が川上と記されていたとする(住民虐殺時の指揮者とはなっていないが、少なくとも事件当時、撫順にいた可能性が高いことにはなる。)。田辺は、自説である川上撫順不在説に立って、代表として川上の名を報告書に使っただけだとする。また、田辺が小林から聞いた話として、川上は日本人の知人に集落攻撃を決めたから知り合いがいたら逃がせと伝えていたとし、さらに、事件後、ゲリラに殺害された渡辺所長の夫人のもとに川上大尉が来て「仇を取りました」と夫人に報告したとされる。これらにつき、田辺は、自身が夫人の息女の森(渡辺)静子から聞いた話としては「仇を取りました」と伝えたのは井上中尉であるとし、川上大尉であれば当時数え17歳の森静子は見知っていたので間違えるわけはないと言われたとする。田辺は、女学生らは女学校で行われる講話や新兵の送り迎え・戦死者の葬儀で守備隊との接触の機会が多いので、川上大尉等中隊関係者を見知っていたので間違えるはずはないとする。(ただし、田辺はそのように女学生が川上大尉を見知っていた理由を推測しながら、当人にはなぜ知っていたのか尋ねていない。これは、他の女学生についても川上大尉を知っていたとしながら、同様である。また、当の訪問者が使いのだれか他の者ではなく井上中尉といえるのかについては棚上げになっている面がある。)また、日時は分からないものの知り合いを逃げさせてくれと川上に頼んだ寺西という人物がいたため、「知り合いを逃がせ」との話はこの話のことであろうとした上で、単に、寺西の子息がその話を疑問視していることをもって、川上大尉が逃がせといったこと自体があやふやな話だと主張している。(もともと川上が誰に指示したのかを田辺は明記しておらず、また、寺西の話も時期が不明なので、田辺の主張にしたがっても、そもそも同じ事件のことかどうかも分からない。)また、小林実の当時の資料では川上大尉の問題の16日だけ資料が欠落しているとして怪しむ主張について、田辺は自身の調べでは16日だけでなく15-17日も資料が無い、一大尉の動向など日誌でも残されていないかぎり14日、18日が分かったのさえ幸運だとする。これについて、16日だけと言ったのは言葉の綾で15-17日の欠落であっても本質に変わりはない、また、そもそもなぜあるべき陣中日誌や戦闘詳報が残っていないのか、あるいは、日誌でなくとも匪賊襲撃の動きが活発なため中隊の動向が逐次追われている時期にもっとも焦点となっている時期の資料がなぜ欠落しているのか、それらの疑問への回答にはなっていないとの反論がなされた。その後、井上久士が大連図書館で月刊『撫順』1932年10月号の記事を発見、佟逹が紹介した新聞『撫順新報』の同年9月16日の複数の号外と合わせて、9月15日から16日にかけて現場近くの守備隊本部やその周辺の撫順内を行き来していた川上大尉の行動が確認された。 当時の撫順の炭鉱所長は鞍山の製鋼所長の兼務で、虐殺事件当時鞍山に行っており、炭鉱次長である久保孚が事実上当時の撫順炭鉱側の最高責任者であった。後に、久保の長男が公表した、瀋陽裁判において上告のために久保が提出した申弁書では、事件の一週間後に調査に来た軍の関係者から聞いて、久保は事件当時川上大尉が不在であったことをはじめて知ったとされている。ただし、これは16日に関係者一同が列席した会議があったとする証言や当時の新聞報道に反することは勿論、事件後一週間も経ってからこのような話が軍関係者から民間人にわざわざ持ち出されたというのは不自然であり、この主張自体が、騒ぎが大きくなったために、事件を出来るだけ末端の現場関係者の暴走による偶発的なものとして矮小化しようとする、日本軍側の偽装工作があり、それに久保も乗ろうとしたものではないかと疑われる理由の一つとなっている。事件後、国際連盟で中国側がこの事件を取り上げ、日本が非難された11月末頃、当時の満州国大使(兼関東軍司令官)である武藤信義は、有吉駐支大使あてに、事件について「井上中尉の率いる一小隊が16日午後1時、千金堡に至り集落の捜索に着手した処、匪賊の発砲を受けたため、自衛上迫撃砲を以て之に応戦した結果、村落は交戦中発火して大半が焼失し、匪賊と不良民約350名が倒れた」として、自軍部隊の行為を正当化する電報を打電し、その中でことさら事件を一個小隊によるものとした上で、わざわざ隊長名として井上の名を挙げている。石上正夫は、武藤関東軍司令官はとくにそこを強調したかったのではないかと、井上中尉の独断専行にしようとする関東軍司令部と大隊の関与を推測している。 久保の申弁書 被告らは死刑判決を受けて上告し、久保孚は弁明のための申弁書を提出、自己弁護の努力を続けた。後年、子息によって公表された内容は概ね以下の通り。①炭鉱は武装は許されていない。②防備隊は在郷軍人の作る自警団のようなものであろう、ならば、軍指揮下の組織である。防備隊長は二等兵より下の輜重輸卒出身で人望で選ばれた人物で、単に軍の命令伝達役であり、実際の指揮は守備隊がとるものである。日本人にとっては統帥権の独立があり、軍の行う事にはいかなる高位高官であっても文民は口出しできない。炭鉱が防備隊に武器として小銃500丁を支給したとされるが、これは寄付として行ったもので、その証拠に所有権は満鉄ではなく防備隊にあった。③灰色の服を着てステッキを持った人物が虐殺後現場に車で来て指示していたというが、自分は灰色の服を持っていない、当時は自転車を使っていた。他に、思い当たる人物がおり、その人物が報告のために職務上来ていたのであろう。④事件1週間後、事件は井上中尉の個人的な暴走によるものと軍の人間から聞いた、この井上中尉は夫人が死出の餞に自決したという特異な体験の持ち主である、それが影響したのであろう。←ただし、これらの主張には以下のような誤りがある。①帝国主義時代の植民地にはしばしば見られる事であるが、実際には炭鉱を経営していた満鉄自体は、ある程度の武装を許され、鉄道や周囲附属地の警備警察権を持っていて、この権限は満州国成立時にも満州国に引渡されなかった。(ちなみに、この満鉄の警備警察機構は1938年1月1日に鉄道警護総隊という名でようやく満州国に移管され治安部に所属、さらに1944年3月には鉄路警護軍という軍事部に所属する特殊軍隊となっている。)②日本の植民地において、住民や企業職員らが自発的に自警団のような組織を作ることはよくあったが、これは本来、純然たる民間組織である。その際に在郷軍人らが中心になって作られることも多かったが、その場合もこれらは後になるまで法令上の根拠がない義勇兵的組織である。たまたまメンバーに在郷軍人がいても、この組織自体が在郷軍人会の一部であったり、下部組織というわけではない。また、これらの団体が自主的に軍に協力することはあったとしても、基本的に民間人の組織であり、特段の法令や軍律がない限り、軍の指揮下に当然に入るわけではない。(ちなみに、満州国警察については、満州国成立時の協定により、匪賊討伐に関しては軍司令官の指揮下に入る。)問題の防備隊員には在郷軍人もいたが、在郷軍人ではない炭鉱職員もいたという。山下貞は、その手記で、防備隊は、一中隊では兵力不足なので、守備隊の要望で守備隊を補充するため作られた組織とし、戦闘ではその指揮下に入ることになっていたとする。(ただし、これは、実際に戦闘が起きた時には、いわば自主的にそのような運用をすることが合意されていたという趣旨と考えられる。)また、人員は満鉄退職者や一般市民から、給与は満鉄から出ていたという。なお、山下貞によれば、防備隊は歩兵1個大隊、機関銃中隊、山砲小隊から成り、後には高射機関銃中隊、高射砲隊も出来たという。(これは、防備隊の指揮をとる筈の中隊の兵力・武装をはるかに凌駕する。なお、山下貞は、高射機関銃・高射砲は満鉄職員からの献納とするが、久保は炭鉱=満鉄の献納としている。)防備隊長の大橋は月刊『撫順』で、防備隊は守備隊の指示を受けて自分が召集すると語っている。 判決では、防備隊メンバーであった日本人炭鉱職員の証言により、久保の命で防備隊が結成されたこと、炭鉱長の許可がなければ防備隊が動員できないこと、経費負担の問題で炭鉱長が総指揮権を持っていたこと、また、在郷軍人でもない炭鉱職員が小隊長として指揮をとっていたこと等が認定されていた。実質は炭鉱の防衛隊であり、事実上炭鉱が支配権を持つ組織とみなされ、実質的な面が重視されたと考えられる。これに対し、久保は申弁書において、それらの者は中位以下の職員・雇員で正確な知識はないと主張している。久保の主張は、現場に現れた人物が着ていたという服装等の問題も含めて、いずれも認められなかった。7人全員の処刑が実行された。(なお、処刑された中で唯一の元警察官は他の関係警察署員が逃亡した中、現地に残っていた人物であったようだ。事件当日非番であったが前夜の交戦に参加しており、また、警察の重要な一員であったことから、翌朝の虐殺に参加しなかった証拠はないとされている。) 井上中尉について 川上大尉は戦後日本で戦犯容疑がかけられたが、1946年地元から東京への連行直前に服毒自殺をした。戦犯容疑の内容については公表されていないが、思い当たる理由としては、この平頂山事件以外に特段取り沙汰されたものはない。他の逃げていた関係者の多くは占領期間中、逃げ切ったとされる。澤地久枝によれば、昭和41年頃、「戦争と人間』の作者である五味川純平のもとに井上元中尉を名乗る人物から「自分は事件に関係していない」という抗議の手紙が届いたが、懸案のまま時が経ち、当時関東軍に在籍した旧軍人らに証言を求めたが、曖昧な答えしか返ってこなかったという。さらに、後日譚があり、抗議の手紙を出したのは井上元中尉本人ではなく、自害した妻千代子の妹であったという。そのまま、井上中尉はパーキンソン氏病の兆候を示して1969年大阪で亡くなったという。結局、井上中尉は、川上大尉が亡くなり、川上の命令があったかどうかにつき、自身が好きな事を言えるようになった後も、最後まで沈黙を守ったことになる。 石上正夫は、田辺の紹介する井上小隊の隊員証言を受入れてなお、関係者らがことさら夫人の自決と結びつけて井上中尉の個人的な資質のために事件が起こったように主張することに異様さを感じ、上層部に事件の責任を極力波及させないため、関係者らが井上中尉が格好のスケープゴートにふさわしいとみて、その独断専行とする筋書きを呑ませたのではないかとの疑いを抱いている。満州では、大杉栄を虐殺した甘粕が最後には満映の理事長になり、張作霖爆殺をした河本大作が満鉄の理事になったではないかというのである。実際に、井上中尉にはその後に陸軍大学の受験が認められたり、金鵄勲章が与えられたりしている(田辺によれば、井上は一兵卒から下士官となり陸士を出た特進士官であり、通常ならば陸大の受験が上官から認められる立場ではなかったとする。一方で、金鵄勲章については、事件前の撫順でのゲリラ撃退だけで与えられるにふさわしい十分な功ではなかったかとの元兵士の見方があるとする。)。寧ろ、夫人が後顧の憂いないようにと自決した後、その思いに背きたくないからと、夫人の葬儀に出ることもなく満州に出発した井上中尉にとっては、それが自身の美学や価値観にかなっており、そこを関係者らに上手く利用されたのかもしれない。 高尾翆、中国の佟逹(『平頂山惨案』の著者)も軍が上層部に事件の責任を極力及ばさないため、井上中尉の独断専行として、事件の責任を押し付けたものと見ている。井上中尉が川上大尉の指示も仰がず、また、他にもいたはずの先任将校を無視あるいは引きずってこのような事を行うとは考えにくい、その他、複数の軽機関銃に加えて重機関銃を使って住民の射殺を行ったことから、必要な弾薬の運搬や銃の設営だけで1個分隊程度の人手がかかる筈であり、多数の住民を逃がさないように追立てた事を考えれば、とても一個小隊で出来ることではない、もし防備隊の協力を得たにしても、そのためにはやはり対策会議で炭鉱側の協力を取り付ける必要があり、とても一小隊長の独断で出来ることではなく、中隊ぐるみでの犯行であったに違いないとする主張も強い。また、久米、山下貞、平野牧師等多くの証言者がこの中尉をN中尉と語っており、実際には存在しない中島中尉という架空の人物をこのNとする資料もあり、軍ぐるみでの偽装工作が行われ、其の際にいったん中島中尉の暴発として噂が広められた可能性もある。 虐殺決定の会議について 田辺は16日朝の対策会議の存在自体を疑っている。田辺は、于慶級の証言によれば、山下満男が会議に出席しているが、山下満男は当時まだ満州国参事官でなく炭鉱の労務班長にすぎず、出席するには地位不足であり、逆に出席すべき防備隊長が出席したことになっていない、したがって対策会議が行われたとの証言は疑わしいとする。ただし、瀋陽の裁判での判決では、山下満男の当時の職位を炭鉱の労務班長とした上で、労務班長こそが炭鉱の労務監督・警備の責任者であり、防備隊を招集、武器を支給し、実質的に防備隊を指揮したとして、その責任を認定している。久保も、防備隊は守備隊の指揮に服するとしながらも、防備隊長を単に人望で選ばれたもので、単なる命令伝達役(つまりは、お飾り)としている。(防備隊長自身は、事件直後の月刊『撫順』の取材で、自分が守備隊長の指示で防備隊を召集すると語っている。ただし、これは建前論の可能性もある。)また、山下満男は、事件翌年に、田辺によれば地位が低いはずの炭鉱の一班長から、突如、一気に県の参事官(副県長にあたる。県長は日本の傀儡であるため、実質上、県のトップとも言える。)に就任しており、これについて、県公署の経務課長である林喜岳は県長が満鉄の歓心を買うため参事官の派遣を満鉄に依頼したところ、彼が送られたとする。山下が満鉄に選ばれたのは、そもそも口止めも兼ねて、この事件の協力や事後処理の論功行賞である可能性も高い。一方、山下が参事官になったのは、炭鉱のための住民土地の接収を進めるためで、その後、炭鉱に戻ったとの、戦後の現地中国人呉宿元の証言もある。裁判で山下満男は、民間人が在郷軍人に命令など出来ないと主張したが、判決では在郷軍人でもない単なる炭鉱職員が小隊長として防備隊を指揮していたことを指摘する。なお、山下満男は、県官時代の行為についても、不当に満人の武器を接収した、集団居住を強制したといった罪でも同時に裁判に付されたが、こちらについては、有力な証拠となる資料が得られなかった、集団居住の被害者が誰で其れが本人の意思であったかどうかの調査が出来なかったといった理由で、無罪となっている。 その他にも、田辺は、撫順市の公式調査結果である『平頂山大屠殺惨案始末』の出席メンバーについて、顔触れの妥当性への疑問をもって、会議自体の開催をありえないと主張している。ただし、単なる一部の顔触れへの疑問だけで会議自体を存在しなかったとする理由に直結できないのは勿論であるが、田辺の主張内容自体にも、代理であったり就任したばかりの人物が会議に出ているのがおかしいといった風に、強引でご都合主義の論調が目立つ。なお、田辺は、中国側の資料で当時炭鉱次長であった久保がしばしば炭鉱長と記されていることを、中国側が久保を責任者に仕立て上げようとしていたからではないかと考えているようであるが、判決文中の久保の経歴紹介では正しく炭鉱次長となっている。中国では、しばしば人を呼ぶときに、〇〇副部長は〇〇部長、××次長は××長と呼ぶ習慣があったことを、田辺は知らなかったようである。また、田辺は自身が取材したとする守備隊の元兵士の証言として、防備隊は虐殺現場に十数人いたがなぜいたかは分からない(証言者が見た限りでは何もしていなかったという意味か)、住民の追立てにも虐殺にも参加しなかった、警察・憲兵は全く関与していない(全く現場にいなかったという意味か)、関与したのは主力が出動した後の留守部隊の80名程度とする。通訳を出せるであろう警察等の協力もなしに、田辺のいう元兵士らの証言によれば初年兵が主力の限られた人数の部隊で、田辺の説に基づいても数百名はいる筈の住民を追い立てることが出来たのか、あるいは、騙して集められるほどの通訳が出来る兵士が揃っていたのか、非常に疑問が残る。『平頂山大屠殺惨案始末』には、対策会議後の憲兵隊長の話として、守備隊に2名の密偵と通訳が1人いることが出てくる。ただ、それでも少ないと思えるが、田辺の言う通りに主力部隊が数日にわたって本部に戻らず出動していたのであれば、井上小隊に通訳を残していたのか、であれば今度は通訳もなく数日間出ずっぱりでのゲリラ探索が出来たというのか、疑問が生じる。石上によれば、事件後、川上が自身を銃殺にしてほしいと軍上層部に申し出たとの家族と複数の撫順会会員の証言が存在するという。 また、田辺は、守備隊は別段、虐殺事件について箝口令を敷いていないとするが、『平頂山大屠殺惨案始末』は箝口令を敷いたとする。石上によれば、撫順にいた女学生であった山口淑子は平頂山事件のことを知らず、片桐妙子ら何人かに聞いても全く耳にしなかったと語ったとして、これを情報統制が効を奏していた証拠とし、情報は完全に隠蔽されたとする。原勢二によれば、戦後表沙汰になったとき、(中国紙の報道に接して)中国人なら殆どの者が知っていたこの事件も、撫順以外の日本人には初耳であったとする。
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