戦後の現地での裁判とは? わかりやすく解説

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戦後の現地での裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 16:00 UTC 版)

平頂山事件」の記事における「戦後の現地での裁判」の解説

裁判と判決 この事件は、終戦後まもなく、国民政府瀋陽開かれた戦犯法廷裁かれた。日本側ではしばしば総責任者乃至直接実行者みなされる川上精一大尉井上清一中尉当時)をはじめとする軍関係者終戦までの間に既に他所移動しており、終戦時国民政府による身柄確保免れたが、現地に留まってい炭鉱関係の民間人11人が逮捕された。上妻の『撫順秘話』では、関係者らは15年も前の事件であり、当時軍人らは異動防備隊幹部もいなくなっており、うやむやになるだろうと思ってたとする。つまり、軍と防備隊が行った事ということで済むと、たかを括っていたと云うのである逮捕当時現地警察関係者残した証言をみると、いったん1946年調査したものの確たる資料得られ立件至らず1947年あらため人員派遣され来て事件当時資料がないため証人探し主体切り替えて、それが起訴つながった節がある1946年阜新炭鉱測量図などの重要書類焼却にかかわる戦犯容疑事件当時炭鉱責任者であった久保孚がいったん逮捕されその後釈放されたものの、1947年に再び当虐殺事件逮捕されたことに関し、原勢二は、書類焼却敗戦自暴自棄となった一部社員過失とする。ただし、当時敗戦とともに日本政府・軍から日本国内もとより海外軍・官庁・関係諸機関に至るまで重要書類処分指令出て各地寧ろ意図的に焼却処理が行われていたことはよく語られることであり、過失による消失というのは額面通りには受け取れない1948年1月3日久保孚ら民間人7人に死刑判決下された軍人以外の防備隊員・警察官等死刑判決について、上妻の「撫順秘話」で虐殺事件後の死体処理悪かったという事死刑になったとされたことにより、日本ではそのように語られることもあるが、実際には、瀋陽での裁判判決では死体損壊だけでなく計画的虐殺についても証言等により認定されている。(国民政府行政院調査等、2日目死体を焼く過程生きたまま焼かれた者もいたと報告しているとするものもある。上妻が取材得たであろう死体処理悪かった」という言葉は、本来はその意味だったのではないかとも疑えるが、瀋陽裁判判決においては生きていた者まで焼かれたとは記載されていない。ただし、後に中国共産党政権下中国人戦前・戦中における日本協力問題とされたとき、憲兵隊通訳であった王長春は、「まだ生きている者がいます」と言ったところ、憲兵隊長から「どうせ守備隊ガソリン焼き殺すと言われたとの証言をしている。また、中国の旅』では、事件生存者となった樹林自身逃げた時もまだ生きていた者がいて、ほどなく現場に火がかけられたのを逃げ込んだ炭鉱の寮から見たことを証言している。)同年4月19日に7人の刑が執行残り4人は事件と関係が薄いとの理由無罪となった日本人側からは、集落民の殺害はあくまで日本軍守備隊強行したもので、死刑になった民間人7人についても実際に殺害には責任は無い筈との主張為されることも多い。事件当時県長通訳務めていた于慶級は、ゲリラ襲撃事件直後対策会議時に川上大尉住民虐殺主張したとき、憲兵隊長は賛成炭鉱責任者である久保孚や炭鉱労務班長山下満男は当初反対し、県長警察署長意見述べなかったものの、川上が、「自分治安責任者だ、これを実行してまた事件起これば自分責任を取る、しかし自分反対してまた同じ事件起きた時は反対した者に責任取ってもらう」と言ったところ、もはや誰も反対しなかったと述べている。于慶級は、その後中国での政治変動都度、かつての日本協力問題にされ、都合3回追及受けているが、その証言内容極めて一貫している。判決認定した事件に至る事実関係は、概ねこの証言内容沿っているように見える。また、事件責任者みなされる立場にある当時県長であった夏宜の証言自分は後から聞いただけとする内容主とするのを除けば憲兵隊通訳の王長春や県公署喜岳などの中国人関係者の証言は于慶級の証言概ね合致している。 虐殺責任者について 于慶級は、虐殺実行部隊川上命じられて3人の小隊長務めたとした。実行部隊人数については、200程度(中隊規模)との説、80程度との説(複数小隊規模となる)、実行井上中尉独断専行よるものであり井上中尉小隊40程度だったとする説など、諸説ある。また、少数警官・憲兵・通訳同行していたとの説の他に、相当数(一説には1個中規模)の炭鉱防備隊員が参加、軍に協力していたとの説がある。瀋陽裁判判決によれば炭鉱責任者久保孚は防備隊虐殺参加していたこと、また、防備隊員中の証言者が防備隊警察参加者がいたことを認めたとする。 瀋陽裁判判決では、関東軍部隊である守備隊の他に、炭鉱防備隊虐殺にも参加したとし、日本人である防備隊員からの、防備隊作ったのは炭鉱責任者久保指示である、久保許可なければ経費問題防備隊動員できなかった、久保防備隊総指揮持っていた、現地住民からの事件後に久保とみられる人物虐殺現場来て何事指示をしていたという証言採用久保有罪根拠としている。いったんは虐殺反対したとしても、結局は、単に軍の意向屈したというばかりでなく、防備隊指揮して出動させ、守備隊虐殺協力させたこと、(事後であるが)現場来て監督していたことが判決理由となっており、これらが実際虐殺一翼担ったものと判断されたようである。 ジャーナリストである上妻斉が取材により纏めた考えられる撫順秘話』が日本側でもっとも初期の纏まった資料であるが、これは中隊長K大尉川上大尉不在決定・実行責任者N中尉説をとる。中隊通常4個小隊からなり当時4人程度いたのではないか考えられる小隊長にはNに当たるイニシャルの者はいない。久米庚子も『平頂山事件とその終末』(1973)で、中隊長であるK大尉川上大尉)は当時留守で、実行責任者をN中尉とし、これは井上中尉こととする久米は、この中尉を深刻な神経の持ち主表現し軍務極めて厳しい人であった聞いてたとする田辺は、瀋陽裁判時の教誨師である平野一城牧師井上中尉深刻な経験所有者としており、これが自然な表現であること、瀋陽獄舎平野接していた久米平野牧師の『最後引揚げ牧師記録』の執筆協力したことを理由に、久米が『最後引揚げ牧師記録』と『撫順秘話』を参考自身でも執筆をしたときに、両書の影響受けて井上中尉をN中尉としたのと同様に、「深刻な経験所有者」を「深刻な神経の持ち主」に書きかえたのだろうとしている。たしかに最初の本となる『撫順秘話』には井上中尉にあたる人物がN中尉となっているが、なぜ、両書の影響で「深刻な経験所有者」が「深刻な神経の持ち主」に変わったとするのかは、不明である。「深刻な神経の持ち主」という表現は、井上中尉性格事件の原因であると、ことさら印象づけかねない表現であるが、田辺としては、炭鉱関係の被告人らは瀋陽裁判での収容時には未だ深刻な経験所有者」とだけ言っていたのであろう、したがって裁判前から井上中尉への責任のなすり付け工作意図的・組織的になされていたわけではないと、主張している趣旨かと思われる一方で田辺は、井上夫人自決事件について自身黒星だった、二度と内地戻れないだろうと言っていたこと、井上中尉を知る守備隊員から「深刻な神経の持ち主」を裏付ける話をした者がないこと等、井上中尉まともな感覚の人間であったことを窺わせる話も報告している。 瀋陽裁判判決はおそらく通訳の于慶級等の証言をもとにしたものだと思われるが、虐殺主導者川上大尉としている。虐殺決めた会議出席した県長の夏宜は、自身事件については後から事件知っただけだと主張し川上大尉から聞いた話として、犯人として井上中尉とは別の人物である中尉の名を聞いたとしている。中国人研究者である佟逹や佟が中心となってとめられ撫順市の『平頂山屠殺惨案始末』等をはじめとする中国側文献多く川上大尉主導者説をとるものがほとんどとされる日本では小林実がこの川上大尉説をとり、石上正夫井上中尉独断専行説を疑う。高尾翆も、襲撃予想されている時期守備隊長不在というのは考えにくい、かりに討伐出ていたとしても一、二時間帰ってこれる地域のはずでゲリラ撫順襲撃予想され時期3日不在続けるというのは不自然とする等の理由で、この説を支持する澤地久枝見解保留している。一方で日本最初に平頂山事件イメージをかたち作った上妻の「撫順秘話」が、虐殺夫人自決したことで知られ中尉暴発としたこと、また、その特異な体験性格影響し虐殺至ったのだろうという見立て俗耳になじみやすいためか、井上中尉こそが虐殺主導者だったのではないかとする主張日本では根強く田辺敏雄、大江志乃夫江口圭一井上中尉主導者説をとっていとされる。ただし、大江志乃夫井上中尉説は、田辺主張信じて、それを受けたのである江口圭一井上中尉説は比較時期早く日本で既に流布していた上妻斉の『撫順秘話』の井上中尉説を著述時点で単にそのまま踏襲していただけ可能性が高い。森正によれば川上大尉主導者説をとる小林実長文論文『「平頂山事件」考』が載った中国研究月報1985年9月号のコピーを、元愛知大学教授野間清の紹介により、江口圭一から平頂山事件について現時点で最も詳細な資料として受取ったという(そのとき江口から特段川上大尉説を否定されていない)。さらに、野間を介して小林連絡、その基となった、さらに長文の『撫順事件調査中間報告書』(1984年12月)のコピー入手したという。これは中間報告まで2年余をかけ、前後五度訪中現地の他北京図書館まで資料調査日本国内では資料収集だけでなく、満鉄撫順会や匿名ながら守備隊生存者からの証言事実確定していたものだったという。そこでは、16日朝の会議で、川上大尉久保炭鉱次長反対押しきって見せしめ守備隊憲兵隊による平頂山住民抹殺集落焼き払いを行うことを決め後始末防備隊協力することに決まって参加隊員証言により井上中尉明確に皆殺し意図隊員伝えてその小隊40名が出動したこと、憲兵隊通訳証言により川上大尉憲兵隊隊長小川とともに車で現場行って参加したことが明らかにされていたとする小林実は、古本屋発見した満州独立守備隊』という書籍に「戦闘事報」が掲載されており、16日未明撫順向かい襲撃してきたゲリラ撃退したこと、その指揮者川上記されていたとする(住民虐殺時の指揮者はなっていないが、少なくとも事件当時撫順にいた可能性が高いことにはなる。)。田辺は、自説である川上撫順不在説に立って代表として川上の名を報告書使っただけだとする。また、田辺小林から聞いた話として、川上日本人知人集落攻撃決めたから知り合いがいたら逃がせと伝えていたとし、さらに、事件後、ゲリラ殺害され渡辺所長夫人のもとに川上大尉来て「仇を取りました」と夫人報告したとされる。これらにつき、田辺は、自身夫人息女渡辺静子から聞いた話としては「仇を取りました」と伝えたのは井上中尉であるとし、川上大尉であれば当時数え17歳森静子見知っていたので間違えわけはないと言われたとする田辺は、女学生らは女学校行われる講話新兵送り迎え・戦死者葬儀守備隊との接触機会が多いので、川上大尉中隊関係者見知っていたので間違えるはずはないとする。(ただし、田辺そのように女学生川上大尉見知っていた理由推測しながら、当人にはなぜ知っていたのか尋ねていない。これは、他の女学生についても川上大尉知っていたとしながら、同様である。また、当の訪問者使いのだれか他の者ではなく井上中尉といえるのかについては棚上げになっている面がある。)また、日時分からないものの知り合い逃げさせてくれと川上頼んだ寺西という人物がいたため、「知り合いを逃がせ」との話はこの話のことであろうとした上で、単に、寺西の子息がその話を疑問視していることをもって川上大尉が逃がせといったこと自体あやふやな話だと主張している。(もともと川上が誰に指示したのかを田辺明記しておらず、また、寺西の話も時期不明なので、田辺主張にしたがっても、そもそも同じ事件のことかどうか分からない。)また、小林実当時資料では川上大尉問題16日だけ資料欠落しているとして怪しむ主張について、田辺自身調べでは16日だけでなく15-17日も資料が無い、一大尉の動向など日誌でも残されていないかぎり14日18日分かったのさえ幸運だとする。これについて、16日だけと言ったのは言葉の綾で15-17日の欠落であっても本質変わりはない、また、そもそもなぜあるべき陣中日誌戦闘詳報残っていないのか、あるいは、日誌でなくとも匪賊襲撃動き活発なため中隊動向逐次追われている時期にもっとも焦点となっている時期資料がなぜ欠落しているのか、それらの疑問への回答はなっていないとの反論なされたその後井上久士大連図書館月刊撫順1932年10月号の記事発見、佟逹が紹介した新聞撫順新報』の同年9月16日複数号外合わせて9月15日から16日にかけて現場近く守備隊本部その周辺撫順内を行き来していた川上大尉行動確認された。 当時撫順炭鉱所長鞍山製鋼所長兼務で、虐殺事件当時鞍山行っており、炭鉱次長である久保孚が事実上当時撫順炭鉱側の最高責任者であった。後に、久保長男公表した瀋陽裁判において上告のために久保提出した申弁書では、事件一週間後に調査に来た軍の関係者から聞いて久保事件当時川上大尉不在であったことをはじめて知ったとされている。ただし、これは16日関係者一同列席した会議があったとする証言当時の新聞報道反することは勿論、事件一週間経ってからこのような話が軍関係者から民間人にわざわざ持ち出されたというのは不自然であり、この主張自体が、騒ぎ大きくなったために、事件出来るだけ末端現場関係者暴走による偶発的なものとして矮小化ようとする日本軍側の偽装工作があり、それに久保乗ろうしたものではないか疑われる理由一つとなっている。事件後、国際連盟中国側がこの事件取り上げ日本非難され11月末頃、当時満州国大使(兼関東軍司令官)である武藤信義は、有吉駐支大使あてに、事件について井上中尉率いる一小隊16日午後1時、千金堡に至り集落捜索着手した処、匪賊発砲受けたため、自衛迫撃砲を以て之に応戦した結果村落交戦発火して大半焼失し匪賊不良民約350名が倒れた」として、自軍部隊行為正当化する電報打電しその中でことさら事件一個小隊よるものとした上で、わざわざ隊長名として井上の名を挙げている。石上正夫は、武藤関東軍司令官はとくにそこを強調したかったのではないかと、井上中尉独断専行にしようとする関東軍司令部大隊関与推測している。 久保の申弁書 被告らは死刑判決受けて上告し久保孚は弁明のための申弁書を提出自己弁護努力続けた後年子息によって公表され内容概ね以下の通り。①炭鉱武装許されていない。②防備隊在郷軍人作る自警団のようなものであろう、ならば、軍指揮下の組織である。防備隊長は二等兵より下の輜重輸卒出身人望選ばれ人物で、単に軍の命令伝達役であり、実際指揮守備隊がとるものである日本人にとって統帥権独立があり、軍の行う事にはいかなる高位高官であっても文民口出しできない炭鉱防備隊武器として小銃500丁を支給したとされるが、これは寄付として行ったもので、その証拠所有権満鉄ではなく防備隊にあった。③灰色の服を着てステッキ持った人物虐殺現場車で来て指示していたというが、自分灰色の服を持っていない、当時自転車使っていた。他に、思い当たる人物がおり、その人物が報告のために職務上来ていたのであろう。④事件1週間後事件井上中尉個人的な暴走よるものと軍の人間から聞いた、この井上中尉夫人死出の餞に自決したという特異な体験持ち主である、それが影響したであろう。←ただし、これらの主張には以下のような誤りがある。①帝国主義時代植民地はしばし見られる事であるが、実際に炭鉱経営していた満鉄自体は、ある程度武装許され鉄道周囲附属地の警備警察持っていて、この権限満州国成立時にも満州国引渡されなかった。(ちなみに、この満鉄警備警察機構1938年1月1日鉄道警護総隊という名でようやく満州国移管され治安部に所属、さらに1944年3月には鉄路警護軍という軍事部に所属する特殊軍隊となっている。)②日本の植民地において、住民企業職員らが自発的に自警団のような組織作ることはよくあったが、これは本来、純然たる民間組織である。その際在郷軍人らが中心になって作られることも多かったが、その場合もこれらは後になるまで法令上の根拠がない義勇兵組織である。たまたまメンバー在郷軍人がいても、この組織自体在郷軍人会一部であったり、下部組織というわけではない。また、これらの団体自主的に軍に協力することはあったとしても、基本的に民間人組織であり、特段法令軍律がない限り、軍の指揮下に当然に入るわけではない。(ちなみに満州国警察については、満州国成立時協定により、匪賊討伐に関して軍司令官指揮下に入る。)問題防備隊員には在郷軍人もいたが、在郷軍人ではない炭鉱職員もいたという。山下貞は、その手記で、防備隊は、一中隊では兵力不足なので、守備隊要望守備隊補充するため作られ組織とし、戦闘ではその指揮下に入ることになってたとする。(ただし、これは、実際に戦闘起きた時には、いわば自主的にそのような運用をすることが合意されていたという趣旨考えられる。)また、人員満鉄退職者や一市民から、給与満鉄から出ていたという。なお、山下によれば防備隊歩兵1個大隊機関銃中隊山砲小隊から成り、後には高射機関銃中隊高射砲隊も出来たという。(これは、防備隊指揮をとる筈の中隊兵力・武装はるかに凌駕する。なお、山下貞は、高射機関銃・高射砲満鉄職員からの献納とするが、久保炭鉱=満鉄献納としている。)防備隊長の大橋月刊撫順』で、防備隊守備隊指示受けて自分召集する語っている。 判決では、防備隊メンバーであった日本人炭鉱職員証言により、久保の命で防備隊結成されたこと、炭鉱長の許可なければ防備隊動員できないこと経費負担問題炭鉱長が総指揮持っていたこと、また、在郷軍人でもない炭鉱職員小隊長として指揮とっていたこと等が認定されていた。実質炭鉱防衛隊であり、事実上炭鉱支配権を持つ組織みなされ実質的な面が重視されたと考えられる。これに対し久保は申弁書において、それらの者は中位以下の職員・雇員正確な知識はないと主張している。久保主張は、現場現れ人物着ていたという服装等問題含めていずれも認められなかった。7人全員処刑実行された。(なお、処刑された中で唯一の警察官は他の関係警察署員逃亡した中、現地残っていた人物であったようだ。事件当日非番であった前夜交戦参加しており、また、警察重要な一員であったことから、翌朝虐殺参加しなかった証拠はないとされている。) 井上中尉について 川上大尉戦後日本戦犯容疑かけられたが、1946年地元から東京へ連行直前服毒自殺をした。戦犯容疑内容について公表されていないが、思い当たる理由としては、この平頂山事件以外に特段取り沙汰されたものはない。他の逃げていた関係者多く占領期間中逃げ切ったとされる澤地久枝によれば昭和41年頃、「戦争と人間』の作者である五味川純平のもとに井上元中尉名乗る人物から「自分事件関係していない」という抗議の手紙届いたが、懸案のまま時が経ち当時関東軍在籍した旧軍人らに証言求めたが、曖昧な答えしか返ってこなかったという。さらに、後日譚があり、抗議の手紙出したのは井上元中尉本人ではなく自害した千代子の妹であったという。そのまま井上中尉パーキンソン氏病の兆候示して1969年大阪亡くなったという。結局井上中尉は、川上大尉亡くなり川上命令あったかどうかにつき、自身好きな事を言えるようになった後も、最後まで沈黙守ったことになる。 石上正夫は、田辺紹介する井上小隊隊員証言を受入れてなお、関係者らがことさら夫人自決と結びつけて井上中尉個人的な資質のために事件起こったように主張することに異様さを感じ上層部事件の責任極力波及させないため、関係者らが井上中尉格好スケープゴートにふさわしいとみて、その独断専行とする筋書きを呑ませたのではないかとの疑い抱いている。満州では、大杉栄虐殺した甘粕最後に満映理事長になり、張作霖爆殺をした河本大作満鉄理事になったではないかというのである実際に井上中尉にはその後陸軍大学受験認められたり、金鵄勲章与えられたりしている(田辺によれば井上一兵卒から下士官となり陸士出た特進士官であり、通常ならば陸大受験上官から認められる立場ではなかったとする一方で金鵄勲章については、事件前撫順でのゲリラ撃退だけで与えられるにふさわしい十分な功ではなかったかとの元兵士見方があるとする。)。寧ろ夫人後顧の憂いないようにと自決した後、その思い背きたくないからと、夫人葬儀に出ることもなく満州出発した井上中尉にとっては、それが自身美学価値観かなっており、そこを関係者らに上手く利用されたのかもしれない高尾翆、中国の佟逹(『平頂山惨案』の著者)も軍が上層部事件の責任極力及ばさないため、井上中尉独断専行として、事件の責任押し付けたものと見ている。井上中尉川上大尉指示も仰がず、また、他にもいたはずの先任将校無視あるいは引きずってこのような事を行うとは考えにくい、その他、複数軽機関銃加えて重機関銃使って住民射殺行ったことから、必要な弾薬運搬や銃の設営だけで1個分隊程度人手がかかる筈であり、多数住民逃がさないように追立てた事を考えれば、とても一個小隊出来ることではない、もし防備隊協力得たにしても、そのためにはやはり対策会議炭鉱側の協力取り付ける必要があり、とても一小隊長独断出来ることではなく中隊ぐるみでの犯行であった違いないとする主張も強い。また、久米山下貞、平野牧師多く証言者がこの中尉をN中尉語っており、実際に存在しない中島中尉という架空の人物をこのNとする資料もあり、軍ぐるみでの偽装工作が行われ、其の際にいったん中島中尉暴発として噂が広められ可能性もある。 虐殺決定会議について 田辺16日朝の対策会議存在自体疑っている。田辺は、于慶級の証言によれば山下満男が会議出席しているが、山下満男は当時まだ満州国参事官でなく炭鉱労務班長にすぎず、出席するには地位不足であり、逆に出席すべき防備隊長が出席したことになっていない、したがって対策会議が行われたとの証言疑わしいとする。ただし、瀋陽裁判での判決では、山下満男の当時職位炭鉱労務班長とした上で労務班長こそが炭鉱労務監督・警備責任者であり、防備隊招集武器支給し実質的に防備隊指揮したとして、その責任認定している。久保も、防備隊守備隊指揮服するしながらも、防備隊長を単に人望選ばれたもので、単なる命令伝達役(つまりは、お飾り)としている。(防備隊自身は、事件直後月刊撫順』の取材で、自分守備隊長指示防備隊召集する語っている。ただし、これは建前論の可能性もある。)また、山下満男は、事件翌年に、田辺によれば地位が低いはずの炭鉱一班長から、突如一気に県の参事官(副県長にあたる。県長日本傀儡であるため、実質上、県のトップとも言える。)に就任しており、これについて、県公署の経務課長である喜岳は県長満鉄歓心を買うため参事官派遣満鉄依頼したところ、彼が送られたとする山下満鉄選ばれたのは、そもそも口止め兼ねて、この事件協力事後処理論功行賞である可能性も高い。一方山下参事官になったのは、炭鉱のための住民土地の接収進めるためで、その後炭鉱戻ったとの、戦後現地中国人宿元証言もある。裁判山下満男は、民間人在郷軍人命令など出来ない主張したが、判決では在郷軍人でもない単なる炭鉱職員小隊長として防備隊指揮していたことを指摘する。なお、山下満男は、県官時代行為についても、不当に満人武器接収した集団居住強制したといった罪でも同時に裁判付されたが、こちらについては、有力な証拠となる資料得られなかった、集団居住被害者が誰で其れ本人意思であったかどうか調査出来なかったといった理由で、無罪となっている。 その他にも、田辺は、撫順市公式調査結果である『平頂山屠殺惨案始末』の出席メンバーについて顔触れ妥当性への疑問をもって会議自体開催ありえない主張している。ただし、単なる一部顔触れへの疑問だけで会議自体存在しなかったとする理由直結できないのは勿論であるが、田辺主張内容自体にも、代理であった就任したばかりの人物会議出ているのがおかしいといった風に、強引でご都合主義論調が目立つ。なお、田辺は、中国側資料当時炭鉱次長であった久保がしばしば炭鉱長と記されていることを、中国側久保責任者仕立て上げようとしていたからではないか考えているようであるが、判決文中の久保経歴紹介では正しく炭鉱次長となっている。中国では、しばしば人を呼ぶときに、〇〇副部長〇〇部長××次長××長と呼ぶ習慣があったことを、田辺知らなかったようである。また、田辺自身取材したとする守備隊の元兵士証言として、防備隊虐殺現場十数人いたがなぜいたかは分からない証言者が見た限りでは何もしていなかったという意味か)、住民追立てにも虐殺にも参加しなかった、警察・憲兵は全く関与していない(全く現場にいなかったという意味か)、関与したのは主力出動した後の留守部隊80程度とする。通訳出せであろう警察等の協力もなしに、田辺のいう元兵士らの証言によれば初年兵主力限られた人数部隊で、田辺の説に基づいて数百名はいる筈の住民追い立てることが出来たのか、あるいは、騙して集められるほどの通訳出来兵士揃っていたのか、非常に疑問が残る。『平頂山屠殺惨案始末』には、対策会議後憲兵隊長の話として、守備隊に2名の密偵通訳1人いることが出てくる。ただ、それでも少ないと思えるが、田辺言う通り主力部隊数日わたって本部戻らず出動していたのであれば井上小隊通訳残していたのか、であれば今度通訳もなく数日間出ずっぱりでのゲリラ探索出来たというのか、疑問生じる。石上によれば事件後、川上自身銃殺してほしいと軍上層部申し出たとの家族複数撫順会員証言存在するという。 また、田辺は、守備隊別段虐殺事件について箝口令敷いていないとするが、『平頂山屠殺惨案始末』は箝口令敷いたとする。石上によれば撫順にいた女学生であった山口淑子平頂山事件のことを知らず片桐妙子何人かに聞いても全く耳にしなかったと語ったとして、これを情報統制が効を奏していた証拠とし、情報は完全に隠蔽されたとする。原勢二によれば戦後表沙汰になったとき、(中国紙の報道接して中国人なら殆どの者が知っていたこの事件も、撫順以外の日本人には初耳であったとする。

※この「戦後の現地での裁判」の解説は、「平頂山事件」の解説の一部です。
「戦後の現地での裁判」を含む「平頂山事件」の記事については、「平頂山事件」の概要を参照ください。

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