帝国主義時代とは? わかりやすく解説

帝国主義時代 (1890年〜1918年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:52 UTC 版)

アメリカ合衆国の歴史」の記事における「帝国主義時代 (1890年1918年)」の解説

西部開拓時代終結によって、アメリカ人更なるフロンティア海外へ求め、「外に目を向けなければならない」という意識起こった1889年パン・アメリカ会議開催され、この力がアメリカラテンアメリカ進出促したとはいえモンロー主義に基づくアメリカ合衆国伝統的な外交政策引き続き重視されていたため、植民地獲得については消極的であり、もっぱら棍棒外交ドル外交基づいた経済的進出狙いとしていた。 アメリカ人こぞって太平洋上の島々移住していった。1898年ハワイ王国なし崩し的併合領土太平洋上まで拡大した。さらに同年スペイン領キューバ独立戦争便乗し軍船メイン号」爆発事件契機として、スペインとの間で米西戦争起こした。この開戦には、当時普及していた新聞大きな役割果たした。すなわち、米国民の反スペイン感情煽動する報道繰り返し行った。これは新聞によって煽動され大衆戦争要求した最初の例であり、米国政府はこの情報戦略積極的に利用し、後の戦争のほとんどに活用された。 米西戦争とそれに続く米比戦争勝利すると、中米多くの国からスペイン勢力駆逐し経済植民地バナナ共和国)とし、プラット修正条項によってキューバ保護国に、プエルトリコフィリピングアム島などを植民地化した。さらに、西欧列強日本によって中国分割進もうとしているときに、1899年1900年に清の門戸開放機会平等領土保全三原則提唱し中国市場への進出狙ったまた、1905年日露戦争調停役を申し出るなど、国際的な立場向上を目指した。 一方日露戦争日本ロシア引き分けになったことから、西欧諸国アジア人対す恐怖抱きそれまで大量移民輩出する中国人向けられ黄禍論矛先日本向けられたが、米国も同様であり、「オレンジ計画」と呼ばれる対日戦計画進めることになる。また、日本戦後ロシア帝国和解イギリスフランスと関係強化乗り出したことから、利権侵されることを恐れた米国日本対立し一時西欧メディア開戦必至報じるほどに緊張高まった同時にドイツイギリスメキシコとの戦争計画持っており、周辺大国潜在的な敵国判断して外交を行うようになったカリブ海地域勢力圏にするために、カリブ海政策推し進め、これらの地域反乱などが起こるたびに武力干渉した棍棒外交)。また、国内東西物流安定目的としたシーレーン確保目的に、パナマ運河建設買収し2万人以上の死者長期間工事経て果ては工兵まで投入して完成させた。さらにコロンビアから分離独立させたパナマから運河地帯永久租借獲得した。 またこのころ石油電力中心とした第二次産業革命起こり豊富な石油資源持ったアメリカ工業力は英国追い抜いて世界一となった。そして強力な企業連合体独占体が成長しエクセルカーネギーモルガンロックフェラー一代巨大企業にのし上がり巨万の富を得たその後アメリカ経済は彼ら財閥によって動かされることとなる。 19世紀後半からヨーロッパで人口急増し食糧難頻発したこのため新天地アメリカ目指し多く移民発生した1880年代からは南欧東欧からの移民増加し、彼らは都市部未熟労働者として働いたため、低所得者として都市中心部スラム街形成した。彼ら新移民カトリック正教会ユダヤ教信者であったため、それ以前からの旧移民との間で偏見摩擦起こり、しばしば抗争発展した。こういった新移民フォード・モーター技術言語教育施し大量生産方式組み入れていったまた、清や日本からも移民発生した急増した日本移民低所得労働者として都市各地活動したため、人種差別感情基づいた、彼らに対す排斥運動起こった

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帝国主義時代

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近代における世界の一体化」の記事における「帝国主義時代」の解説

1870年代以降欧米諸国では重工業中心に生産力増大するとともに企業集中独占がすすみ、大企業と大銀行結合してさまざまな産業支配した。この傾向は、アメリカ合衆国ドイツでとくに強くみられ、工業生産力におけるイギリス圧倒的優位くずれてきた。列強は、市場原料獲得だけでなく、資本投下し利潤求めるため、きそって海外向かい世界各地軍事衝突ひきおこしながら自国植民地勢力圏拡大していった。その結果列強はしだい対立深めていくとともに従来資本主義経済影響およばない空白地域だったアジア内陸部アフリカ大陸太平洋諸地域もこれら諸国によりすみずみまで分割され、「分割通じた世界の一体化」が進行したまた、ヨーロッパ以外のアメリカ合衆国大日本帝国もこの競争参入し、さらに中国イランなどの古い文明国分割対象となったこのように資本主義の高度に発達した段階とそれに対応する列強対外膨張策は帝国主義よばれる時代区分としては、一般に世紀転換期から第一次世界大戦までを帝国主義時代と呼称する。

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帝国主義時代(19世紀後半〜1913年)

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鉄道の歴史」の記事における「帝国主義時代(19世紀後半1913年)」の解説

19世紀中葉にあってはヨーロッパ工業化飛躍的に進み各国先行するイギリス対抗しながら殖産興業進展させていった諸国経済はこうして相互に連関しあうようになり、世界的な資本制形成されていった鉄道大量の人や物資移動可能にし、こうした状況対応して多くの国が共通の関心をもつ事象について共同処理する機関つぎつぎ設立された。1865年設立され万国電信連合世界最古国際機関といわれ、1874年には万国郵便連合設立された。赤十字国際委員会組織されたのも1863年のことである。この年イギリス首都ロンドンでは世界初地下鉄開業しているが、当時蒸気機関車車両牽引した。なお、世界で2番目の地下鉄1896年 ハンガリーオーストリア=ハンガリー帝国)の首都ブダペストにおいてであり、1896年のことである。 ヨーロッパ大陸では、1870年ころまでに主要な鉄道路線田園地帯を縫うように走るようになっており、アルプス山脈抜けトンネル橋梁など当時土木技術偉大な成果みなされていた。 アメリカ合衆国 北アメリカ大陸横断する鉄道建設しようという考え合衆国鉄道実用化された当初から存在していたが、同時に新聞社説などでは批判対象ともなっていた。これが、1848年メキシコからのカリフォルニア割譲ゴールドラッシュ1850年カリフォルニア州成立によって事情一変した1850年アメリカ合衆国連邦議会鉄道建設のために土地払い下げ開始した。さらに1853年連邦議会アメリカ陸軍省に対して15ドル予算支出し、どの横断ルートが最も適切であるのかを調査させた。その結果南部に1本、北部に1本、中央には1本以上が可能であると報告された。1854年成立カンザス・ネブラスカ法も、元来シカゴ起点とする中央部大陸横断鉄道建設目標したものであった1862年ユニオン・パシフィック鉄道会社創立されネブラスカ州からカリフォルニアまでの鉄道建設議会によって認可され一方カリフォルニア州ではサクラメント起点セントラル・パシフィック鉄道東へ向けて鉄道建設することが決まった1861年起こった南北戦争にあっては北軍連邦軍)が鉄道・機関車双方において優位に立っており、軍隊物資輸送能力の面では南軍アメリカ連合国軍)を決定的に上回っていた。北軍勝利戦争終結すると、大陸横断鉄道建設には中国ヨーロッパからの移民労働者加え南北戦争退役軍人加わり1869年5月工事完成した集められ中国人労働者の数は、最終的に1万2,000人に達したといわれている。ユニオン・パシフィック鉄道セントラル・パシフィック鉄道ユタ準州当時)のプロモントリーで接続した。なお、19世紀末には、この路線含め4本の大陸横断鉄道完成している。大陸横断鉄道完成は、西部へ移住をおおいに促進したこの間列車徐々に走行速度速めていったが、アメリカ合衆国蒸気機関車999号は、1893年時速160キロメートル記録している。 ドイツ ドイツでは、1866年普墺戦争1870年普仏戦争勝利を経て1871年統一国家であるドイツ帝国成立したが、鉄道について中央政府による一元運営ではなくプロイセン邦有鉄道王立バイエルン邦有鉄道王立ザクセン邦有鉄道王立ヴュルテンベルク邦有鉄道バーデン大公国邦有鉄道など、連邦構成する王国大公国毎の単位運営された。連邦首都ベルリン発展めざましく1881年には世界初路面電車開業している。 1888年ドイツ帝国オスマン帝国領内でアナトリア鉄道の建設開始し1893年開通したドイツ資本また、1899年にはバグダート鉄道敷設獲得し現在のイラク地方への鉄道建設進め、ほぼ同時期にヒジャーズ鉄道建設して中東地域への進出図り、これが、イギリスロシアなどとの対立をまねき、第一次世界大戦遠因のひとつとなった3B政策)。 ロシア ロシア帝国は、1872年グルジア(現、ジョージア)のトビリシポティの間の鉄道建設しコーカサス地方支配強めた。さらに、1880年代には帝国領だった中央アジア諸地域にも鉄道敷設してその支配強め1887年にはサマルカンド達した1891年ロシアシベリア横断鉄道建設開始した。この鉄道は、露仏協商によって提携強めたフランス資本導入して進められたが、一方で極東経済的利権保有していたイギリス警戒をまねき、地理的に近い日本もまたヨーロッパからの大軍移動容易にするこの鉄道敷設には恐怖いだいた両者利害がここで一致し日英両国1902年日英同盟を結ぶにいたった鉄道建設は、ヨーロッパ側から建設進めた区間1898年バイカル湖畔のイルクーツク達した極東地方から起工したウスリー鉄道1897年完成しハバロフスクからアムール川シルカ川超えて西へ鉄道建設されていった建設は、サハリンなど各地流されていた受刑者ロシア軍兵士によって進められた。1896年ロシア政府露清密約によって清国からシベリア鉄道短絡線として満州北部横断してハルビンなどを経由する東清鉄道敷設得た1901年バイカル湖区間除いて完成1903年には東清鉄道全通し日露戦争のさなかの1904年9月全通した日露戦争後は、アムール川左岸通ってハバロフスク橋アムール川渡りハバロフスク経由する国内ルート建設進めた1913年世界最長シベリア鉄道完成総延長は9,000キロメートル超える日本 日本明治維新後は殖産興業政策推し進めていった。日本の鉄道建設伊藤博文大隈重信の熱心な主張始まった1869年従来民部官改組されるかたちで民部省太政官設置され民部省その後大蔵省との合併と分離くりかえすが、大隈伊藤らは両省の役職兼務して租税徴収から産業育成におよぶ強大な権限掌握して鉄道電信郵便灯台など近代化のためのインフラストラクチャー整備強力に進めた鉄道に関して政府財政不足のため、建設費にあてるため100万ポンド外国債イギリス募集した新たに設立され工部省によって京浜間測量始まったのは1870年3月のことである。 日本の鉄道開業1872年明治5年)、新橋横浜(現、桜木町駅)間においてであった鉄道開業式は、横浜駅おこなわれたが、明治天皇新橋駅から乗車して1時間後の開業式臨み、みずから「鉄道便利さ」をアピールし百官衆庶外国公使横浜居留外国人工部省御雇外国人などに対し勅語をした。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}我国鉄道の首線工竣り、朕みずから開行するの日にあたりて、列国公使斎く来り祝意表せらる、朕歓喜至り堪えざるなり。朕更に庶幾すは、自今中外人民共に利を享け永く幸福を保ち公使等の祝詞に負かざらんことを祈る。 —各国公使等へ勅語1872年9月12日 いわゆる長州五傑」のひとりであり、ロンドン大学鉱山土木学んだ井上勝工部省鉄道寮の長官鉄道頭)となり、1877年大阪に工技生養所を設けて鉄道技術者を養成し京都・大津間鉄道はすべて日本人技術者労働者だけで工事おこなった一時鉄道関係の「お雇い外国人」は100人を超えていたが、1875年ごろから減少しはじめ、1880年ごろには日本人鉄道建設および鉄道運営技術をほぼ習得した1879年には日本人機関士登場している。1885年工部省廃止後の鉄道事業内閣直属となった1890年前後になると東海道線新橋神戸間や日本鉄道の上野・青森間が全通した日本鉄道は、1881年に6,000万という当時にあっては巨額な資本金設立され日本初民営鉄道で、華族資本結集したものであったまた、1890年代から1900年代には、京都市はじめ大都市では都市内交通機関として市街電車開通した1880年西洋諸国鉄道線路延長35キロメートル達したが、他地域ではすべて合わせても35,000メートルにすぎなかった。しかも、その割合イギリス人インド建設したものが多く占めたインドでは1853年アジア初の鉄道開業している。中国大陸初の鉄道1876年のことであるが、これはヨーロッパ人によって建設されたものであり、しかも翌年清国政府によって破壊されてしまった。したがって1880年段階では清帝国はわずか1本の鉄道保有していなかった。ペルシア初の鉄道1888年にようやく建設され首都テヘランとそこから約10キロメートル南のイスラーム聖地結んだもので、ベルギー会社によって建設されたものであったこのように欧米における鉄道普及それ以外の地域のそれとでは大きな格差があったが、自国鉄道建設進めた日本は、アジアのなかにあっては例外的な存在といえる。 以下は、各年次ごとの世界大陸鉄道延長距離であり、単位は1,000キロメートルである。 年代世界ヨーロッパアメリカアジアアフリカオーストラリア1870 210 105 93 8 2 2 1880 372 169 175 16 5 8 1890 617 224 331 34 9 19 1900 790 284 402 60 20 24 1910 1,030 334 526 102 37 31 1913 1,102 347 567 108 44 36 1870-1900の増加分5801793095218221900-1913の増加分3126316598241219世紀後葉から20世紀初頭にかけては、世界システム論唱える世界システム」の「周辺地域での鉄道建設めざましいことが、上のからもうかがわれる。たとえば、メキシコでは1876年には650キロメートルだったものが1911年鉄道総延長2万4,000キロメートル達し、その増加率37倍にもおよんだ中国においても、1900年には470キロメートルにすぎなかったものが、1913年には21倍の9,858キロメートルへと21倍に急増したが、これは列強競って鉄道建設利権求めた結果であった。そして、これは単に鉄道敷設だけではなく鉄道沿線地域での資源開発独占可能にする鉱業特権採掘権関税ほか租税における免税特権場合によっては治安維持のための警察権駐兵権などをもともなっており、この国の半植民地化をむしろ推進させたのである。そして、鉄道建設沿線農民田畑墓地破壊し伝統的な運送業者仕事奪い、さらに輸入され外国産の繊維製品はじめ工業製品は、伝統的な手工業者のしごとを圧迫したこうした国内所在する外国経営鉄道への反感排外主義として現れることも少なくなく、1900年北清事変義和団の乱でも、義和団西洋人中国人キリスト教信者舶来物を扱う商店電線などとともに鉄道攻撃対象として襲撃した日本また、日露戦争後ポーツマス条約1905年)で長春以南ロシア東清鉄道南部支線獲得し戦争中清国抗議退けて臨時軍用鉄道監部建設した安東(現、丹東)・奉天(現、瀋陽)間の軍用軽便鉄道安奉線)とあわせて1907年設立南満州鉄道会社通称満鉄)の経営下に置かれた。 英領インドではすでに1850年代鉄道建設ラッシュ始まり20世紀初頭には総延長4キロメートル達し、これはアメリカ合衆国カナダロシア帝国につぐ世界第4の距離であったインド亜大陸急速に鉄道交通発展したのには、デカン高原など比較平坦な高原状の地形広がっていることやガンジス川を除くと乾季河川での舟運がほとんど不可能になること、大量貨物輸送には不向きな道路事情などの理由考えられる鉄道建設はしたがってインド新しい生活様式近代産業勃興生み出すものと一部では期待されたが、実際には必ずしもそうならなかった。鉄道内陸生産され綿花小麦ジュートアヘンなどをムンバイボンベイ)、チェンナイマドラス)、コルカタカルカッタ)などの輸出港に運び外国とくにイギリスからの輸入品内陸各地輸送するために建設された。したがってインドまとまりのある国内市場をつくることには寄与せず、その一方で鉄道会社経費節減等のため路線ごとに異なゲージ軌間)を用いたので、国内市場はむしろ分断されたのであったまた、ロンドン金融市場募集されインド鉄道債には通常より高い利子率インド帝国政府によって保証され、その利子鉄道赤字であってもインド人支払税金によって支払われた。さらに、インド農業自給目的食糧生産中心とするものから次第輸出用商品作物生産シフトしてきたので、いったん不作になると、しばしば深刻な飢饉襲われた。総じてインドの鉄道インド経済を低開発状態のままに固定する役割果たしたのであるもとより鉄道道路事情のわるいインド交通革命もたらしたのも事実であり、都市巡礼地にはインド各地から多く人びと流入した。しかし、鉄道会社における人びと職種列車における客室等級などにおいては人種的な差別インド人同士カースト間の差別よりもいっそう露骨明瞭なかたちをとったのであり、インドにおける反英運動鉄道建設同時に始まったのは必ずしも偶然ではなかった。 アフリカは、鉄道普及に関しては他大陸比較していっそう遅れていた。ただし、19世紀後葉にはエジプトアルジェリアなど植民地化比較早く進んだ北部アフリカ鉱産資源豊富な現在の南アフリカ共和国地域ケープ植民地オレンジ自由国トランスヴァール共和国など)では鉄道建設始まった。しかし、1880年代以降ヨーロッパ人殺到したサハラ砂漠以南熱帯アフリカでは、たとえ有望な鉱産資源が見つかって鉄道建設にすぐに結びついたわけではなかった。吸血性ツェツェバエアフリカ睡眠病媒介するめ荷物運搬用の大型役畜用いることができず、荷物を運ぶには人力拠るしかなかったからである。もっぱら人力に頼るこのような交通事情克服するために着手され鉄道建設に際しても、最初すべての資材機材運搬人力に頼らざるを得ないというディレンマ陥ったベルギー王レオポルド2世私的植民地であったコンゴ自由国では、1890年、マタディ・レオポルドヴィル鉄道の建設着手し建設労働者多く険し地形マラリア赤痢などの感染症脚気などで命を落とし、やがてアフリカ各地カリブ海沿岸地域中国などからも人夫集めたが、暴動起こったり、逃亡する者や病死者相次いだりして建設遅々として進まず、ようやく8年後の1898年完成している。これは一例であるが、このように現地人びと多大な犠牲のもとに建設され鉄道も、内陸部大都市ほとんどない熱帯アフリカ各地にあっては旅客輸送収益をあげることができず、ヨーロッパ人による資源収奪に役立つのみであり、アフリカ人自身にはほとんど恩恵をもたらさなかった。

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