帝国主義時代 (1890年〜1918年)
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「アメリカ合衆国の歴史」の記事における「帝国主義時代 (1890年〜1918年)」の解説
西部開拓時代の終結によって、アメリカ人は更なるフロンティアを海外へ求め、「外に目を向けなければならない」という意識が起こった。1889年にパン・アメリカ会議が開催され、この力がアメリカのラテンアメリカ進出を促した。とはいえ、モンロー主義に基づくアメリカ合衆国の伝統的な外交政策は引き続き重視されていたため、植民地獲得については消極的であり、もっぱら棍棒外交やドル外交に基づいた経済的進出を狙いとしていた。 アメリカ人はこぞって太平洋上の島々へ移住していった。1898年にハワイ王国をなし崩し的に併合、領土を太平洋上まで拡大した。さらに同年、スペイン領キューバの独立戦争に便乗し、軍船「メイン号」爆発事件を契機として、スペインとの間で米西戦争を起こした。この開戦には、当時普及していた新聞が大きな役割を果たした。すなわち、米国民の反スペイン感情を煽動する報道を繰り返し行った。これは新聞によって煽動された大衆が戦争を要求した最初の例であり、米国政府はこの情報戦略を積極的に利用し、後の戦争のほとんどに活用された。 米西戦争とそれに続く米比戦争に勝利すると、中米の多くの国からスペイン勢力を駆逐して経済植民地(バナナ共和国)とし、プラット修正条項によってキューバを保護国に、プエルトリコやフィリピン、グアム島などを植民地化した。さらに、西欧列強と日本によって中国分割が進もうとしているときに、1899年と1900年に清の門戸開放・機会平等・領土保全の三原則を提唱し、中国市場への進出を狙った。また、1905年に日露戦争の調停役を申し出るなど、国際的な立場向上を目指した。 一方、日露戦争に日本がロシアと引き分けになったことから、西欧諸国はアジア人に対する恐怖を抱き、それまで大量の移民を輩出する中国人に向けられた黄禍論の矛先が日本に向けられたが、米国も同様であり、「オレンジ計画」と呼ばれる対日戦争計画を進めることになる。また、日本は戦後にロシア帝国と和解、イギリスやフランスと関係強化に乗り出したことから、利権を侵されることを恐れた米国は日本と対立し、一時は西欧メディアが開戦必至と報じるほどに緊張が高まった。同時に、ドイツ、イギリス、メキシコとの戦争計画も持っており、周辺の大国を潜在的な敵国と判断して外交を行うようになった。 カリブ海地域を勢力圏にするために、カリブ海政策を推し進め、これらの地域で反乱などが起こるたびに武力干渉した(棍棒外交)。また、国内東西物流の安定を目的としたシーレーンの確保を目的に、パナマ運河建設権を買収し、2万人以上の死者と長期間の工事を経て、果ては工兵まで投入して完成させた。さらにコロンビアから分離独立させたパナマから運河地帯の永久租借権を獲得した。 またこのころ、石油や電力を中心とした第二次産業革命が起こり、豊富な石油資源を持ったアメリカの工業力は英国を追い抜いて世界一となった。そして強力な企業連合体や独占体が成長し、エクセル、カーネギー、モルガン、ロックフェラーは一代で巨大企業にのし上がり、巨万の富を得た。その後のアメリカ経済は彼ら財閥によって動かされることとなる。 19世紀後半からヨーロッパで人口が急増し、食糧難が頻発した。このため新天地アメリカを目指して多くの移民が発生した。1880年代からは南欧や東欧からの移民が増加し、彼らは都市部で未熟練労働者として働いたため、低所得者として都市中心部でスラム街を形成した。彼ら新移民はカトリック・正教会やユダヤ教信者であったため、それ以前からの旧移民との間で偏見と摩擦が起こり、しばしば抗争に発展した。こういった新移民にフォード・モーターが技術・言語教育を施し、大量生産方式に組み入れていった。また、清や日本からも移民が発生した。急増した日本移民は低所得労働者として都市各地で活動したため、人種差別感情に基づいた、彼らに対する排斥運動が起こった。
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帝国主義時代
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「近代における世界の一体化」の記事における「帝国主義時代」の解説
1870年代以降、欧米諸国では重工業を中心に生産力が増大するとともに、企業の集中と独占がすすみ、大企業と大銀行が結合してさまざまな産業を支配した。この傾向は、アメリカ合衆国やドイツでとくに強くみられ、工業生産力におけるイギリスの圧倒的優位はくずれてきた。列強は、市場と原料の獲得だけでなく、資本を投下し利潤を求めるため、きそって海外に向かい、世界各地で軍事衝突をひきおこしながら自国の植民地や勢力圏を拡大していった。その結果、列強はしだいに対立を深めていくとともに、従来は資本主義経済の影響のおよばない空白地域だったアジア内陸部、アフリカ大陸、太平洋諸地域もこれら諸国によりすみずみまで分割され、「分割を通じた世界の一体化」が進行した。また、ヨーロッパ以外のアメリカ合衆国や大日本帝国もこの競争に参入し、さらに中国、イランなどの古い文明国も分割の対象となった。 このように、資本主義の高度に発達した段階とそれに対応する列強の対外膨張策は帝国主義とよばれる。時代区分としては、一般に世紀転換期から第一次世界大戦までを帝国主義時代と呼称する。
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帝国主義時代(19世紀後半〜1913年)
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「鉄道の歴史」の記事における「帝国主義時代(19世紀後半〜1913年)」の解説
19世紀中葉にあっては、ヨーロッパの工業化が飛躍的に進み、各国は先行するイギリスに対抗しながら殖産興業を進展させていった。諸国の経済はこうして相互に連関しあうようになり、世界的な資本制が形成されていった。鉄道は大量の人や物資の移動を可能にし、こうした状況に対応して、多くの国が共通の関心をもつ事象について共同処理する機関がつぎつぎに設立された。1865年に設立された万国電信連合は世界最古の国際機関といわれ、1874年には万国郵便連合が設立された。赤十字国際委員会が組織されたのも1863年のことである。この年、イギリスの首都ロンドンでは世界初の地下鉄が開業しているが、当時は蒸気機関車が車両を牽引した。なお、世界で2番目の地下鉄は 1896年 ハンガリー(オーストリア=ハンガリー帝国)の首都ブダペストにおいてであり、1896年のことである。 ヨーロッパ大陸では、1870年ころまでに主要な鉄道路線が田園地帯を縫うように走るようになっており、アルプス山脈を抜けるトンネルや橋梁などは当時の土木技術の偉大な成果とみなされていた。 アメリカ合衆国 北アメリカ大陸を横断する鉄道を建設しようという考えは合衆国で鉄道が実用化された当初から存在していたが、同時に新聞の社説などでは批判の対象ともなっていた。これが、1848年のメキシコからのカリフォルニア割譲、ゴールドラッシュ、1850年のカリフォルニア州成立によって事情が一変した。1850年、アメリカ合衆国連邦議会は鉄道建設のために土地の払い下げを開始した。さらに1853年、連邦議会はアメリカ陸軍省に対して15万ドルの予算を支出し、どの横断ルートが最も適切であるのかを調査させた。その結果、南部に1本、北部に1本、中央には1本以上が可能であると報告された。1854年成立のカンザス・ネブラスカ法も、元来はシカゴを起点とする中央部の大陸横断鉄道建設を目標としたものであった。1862年にユニオン・パシフィック鉄道会社が創立されてネブラスカ州からカリフォルニアまでの鉄道建設が議会によって認可され、一方、カリフォルニア州ではサクラメントを起点にセントラル・パシフィック鉄道が東へ向けて鉄道を建設することが決まった。 1861年に起こった南北戦争にあっては、北軍(連邦軍)が鉄道・機関車双方において優位に立っており、軍隊や物資の輸送能力の面では南軍(アメリカ連合国軍)を決定的に上回っていた。北軍勝利で戦争が終結すると、大陸横断鉄道の建設には中国やヨーロッパからの移民労働者に加え、南北戦争の退役軍人が加わり、1869年5月に工事が完成した。集められた中国人労働者の数は、最終的には1万2,000人に達したといわれている。ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道はユタ準州(当時)のプロモントリーで接続した。なお、19世紀末には、この路線含め4本の大陸横断鉄道が完成している。大陸横断鉄道の完成は、西部への移住をおおいに促進した。 この間、列車は徐々に走行速度を速めていったが、アメリカ合衆国の蒸気機関車999号は、1893年に時速160キロメートルを記録している。 ドイツ ドイツでは、1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争の勝利を経て、1871年に統一国家であるドイツ帝国が成立したが、鉄道については中央政府による一元運営ではなく、プロイセン邦有鉄道、王立バイエルン邦有鉄道、王立ザクセン邦有鉄道、王立ヴュルテンベルク邦有鉄道、バーデン大公国邦有鉄道など、連邦を構成する王国や大公国毎の単位で運営された。連邦の首都ベルリンの発展はめざましく、 1881年には世界初の路面電車が開業している。 1888年、ドイツ帝国はオスマン帝国領内でアナトリア鉄道の建設を開始し、1893年に開通した。ドイツ資本はまた、1899年にはバグダート鉄道敷設権を獲得し、現在のイラク地方への鉄道建設を進め、ほぼ同時期にヒジャーズ鉄道も建設して中東地域への進出を図り、これが、イギリスやロシアなどとの対立をまねき、第一次世界大戦の遠因のひとつとなった(3B政策)。 ロシア ロシア帝国は、1872年、グルジア(現、ジョージア)のトビリシとポティの間の鉄道を建設し、コーカサス地方の支配を強めた。さらに、1880年代には帝国領だった中央アジア諸地域にも鉄道を敷設してその支配を強め、1887年にはサマルカンドに達した。 1891年、ロシアはシベリア横断鉄道の建設を開始した。この鉄道は、露仏協商によって提携を強めたフランス資本を導入して進められたが、一方では極東に経済的利権を保有していたイギリスの警戒をまねき、地理的に近い日本もまたヨーロッパからの大軍の移動を容易にするこの鉄道の敷設には恐怖をいだいた。両者の利害がここで一致し、日英両国は1902年、日英同盟を結ぶにいたった。鉄道建設は、ヨーロッパ側から建設を進めた区間が1898年にバイカル湖畔のイルクーツクに達した。極東地方から起工したウスリー鉄道は1897年に完成し、ハバロフスクからアムール川、シルカ川を超えて西への鉄道も建設されていった。建設は、サハリンなど各地に流されていた受刑者やロシア軍兵士によって進められた。1896年、ロシア政府は露清密約によって清国からシベリア鉄道短絡線として満州北部を横断してハルビンなどを経由する東清鉄道の敷設権を得た。1901年、バイカル湖の区間を除いて完成、1903年には東清鉄道も全通して日露戦争のさなかの1904年9月に全通した。日露戦争後は、アムール川左岸を通ってハバロフスク橋でアムール川を渡り、ハバロフスクを経由する国内ルートの建設を進めた。1913年、世界最長のシベリア鉄道が完成、総延長は9,000キロメートルを超える。 日本 日本も明治維新後は殖産興業政策を推し進めていった。日本の鉄道建設は伊藤博文・大隈重信の熱心な主張で始まった。1869年、従来の民部官が改組されるかたちで民部省が太政官に設置され、民部省はその後大蔵省との合併と分離をくりかえすが、大隈・伊藤らは両省の役職を兼務して租税徴収から産業育成におよぶ強大な権限を掌握して、鉄道・電信・郵便・灯台など近代化のためのインフラストラクチャー整備を強力に進めた。鉄道に関しては政府は財政不足のため、建設費にあてるため100万ポンドの外国債をイギリスで募集した。新たに設立された工部省によって京浜間の測量が始まったのは1870年3月のことである。 日本の鉄道開業は1872年(明治5年)、新橋・横浜(現、桜木町駅)間においてであった。鉄道開業式は、横浜駅でおこなわれたが、明治天皇は新橋駅から乗車して1時間後の開業式に臨み、みずから「鉄道の便利さ」をアピールし、百官衆庶や外国公使、横浜居留外国人、工部省の御雇外国人などに対し勅語をした。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}我国鉄道の首線工竣り、朕みずから開行するの日にあたりて、列国公使等斎く来りて祝意を表せらる、朕歓喜の至りに堪えざるなり。朕更に庶幾すは、自今、中外人民共に鴻利を享け永く幸福を保ち、公使等の祝詞に負かざらんことを祈る。 —各国公使等へ勅語、1872年9月12日 いわゆる「長州五傑」のひとりであり、ロンドン大学で鉱山・土木を学んだ井上勝は工部省鉄道寮の長官(鉄道頭)となり、1877年、大阪に工技生養成所を設けて鉄道技術者を養成し、京都・大津間の鉄道はすべて日本人技術者と労働者だけで工事をおこなった。一時は鉄道関係の「お雇い外国人」は100人を超えていたが、1875年ごろから減少しはじめ、1880年ごろには日本人が鉄道建設および鉄道運営の技術をほぼ習得した。1879年には日本人機関士も登場している。1885年の工部省廃止後の鉄道事業は内閣直属となった。1890年前後になると東海道線の新橋・神戸間や日本鉄道の上野・青森間が全通した。日本鉄道は、1881年に6,000万という当時にあっては巨額な資本金で設立された日本初の民営鉄道で、華族の資本を結集したものであった。また、1890年代から1900年代には、京都市はじめ大都市では都市内の交通機関として市街電車が開通した。 1880年、西洋諸国の鉄道線路は延長35万キロメートルに達したが、他地域ではすべて合わせても3万5,000メートルにすぎなかった。しかも、その割合はイギリス人がインドで建設したものが多くを占めた。インドでは1853年にアジア初の鉄道が開業している。中国大陸初の鉄道は1876年のことであるが、これはヨーロッパ人によって建設されたものであり、しかも翌年清国政府によって破壊されてしまった。したがって、1880年段階では清帝国はわずか1本の鉄道も保有していなかった。ペルシア初の鉄道は1888年にようやく建設され、首都テヘランとそこから約10キロメートル南のイスラームの聖地を結んだもので、ベルギーの会社によって建設されたものであった。このように、欧米における鉄道普及とそれ以外の地域のそれとでは大きな格差があったが、自国で鉄道建設を進めた日本は、アジアのなかにあっては例外的な存在といえる。 以下は、各年次ごとの世界の大陸別鉄道の延長距離であり、単位は1,000キロメートルである。 年代世界ヨーロッパアメリカアジアアフリカオーストラリア1870 210 105 93 8 2 2 1880 372 169 175 16 5 8 1890 617 224 331 34 9 19 1900 790 284 402 60 20 24 1910 1,030 334 526 102 37 31 1913 1,102 347 567 108 44 36 1870-1900の増加分5801793095218221900-1913の増加分3126316598241219世紀後葉から20世紀初頭にかけては、世界システム論が唱える「世界システム」の「周辺」地域での鉄道建設がめざましいことが、上の表からもうかがわれる。たとえば、メキシコでは1876年には650キロメートルだったものが1911年の鉄道総延長は2万4,000キロメートルに達し、その増加率は37倍にもおよんだ。 中国においても、1900年には470キロメートルにすぎなかったものが、1913年には21倍の9,858キロメートルへと21倍に急増したが、これは列強が競って鉄道建設の利権を求めた結果であった。そして、これは単に鉄道敷設権だけではなく、鉄道沿線地域での資源の開発や独占を可能にする鉱業特権・採掘権、関税ほか租税における免税特権、場合によっては治安維持のための警察権・駐兵権などをもともなっており、この国の半植民地化をむしろ推進させたのである。そして、鉄道建設は沿線農民の田畑や墓地を破壊し、伝統的な運送業者の仕事を奪い、さらに輸入された外国産の繊維製品はじめ工業製品は、伝統的な手工業者のしごとを圧迫した。こうした国内に所在する外国経営の鉄道への反感が排外主義として現れることも少なくなく、1900年の北清事変(義和団の乱)でも、義和団は西洋人や中国人キリスト教信者、舶来物を扱う商店、電線などとともに鉄道も攻撃対象として襲撃した。日本もまた、日露戦争後のポーツマス条約(1905年)で長春以南のロシア東清鉄道南部支線を獲得し、戦争中に清国の抗議を退けて臨時軍用鉄道監部が建設した安東(現、丹東)・奉天(現、瀋陽)間の軍用軽便鉄道(安奉線)とあわせて1907年設立の南満州鉄道会社(通称、満鉄)の経営下に置かれた。 英領インドではすでに1850年代に鉄道建設ラッシュが始まり、20世紀初頭には総延長4万キロメートルに達し、これはアメリカ合衆国、カナダ、ロシア帝国につぐ世界第4の距離であった。インド亜大陸で急速に鉄道交通が発展したのには、デカン高原など比較的平坦な高原状の地形が広がっていることやガンジス川を除くと乾季に河川での舟運がほとんど不可能になること、大量の貨物の輸送には不向きな道路事情などの理由が考えられる。鉄道建設はしたがってインドに新しい生活様式と近代産業の勃興を生み出すものと一部では期待されたが、実際には必ずしもそうならなかった。鉄道は内陸で生産された綿花、小麦、ジュート、茶、アヘンなどをムンバイ(ボンベイ)、チェンナイ(マドラス)、コルカタ(カルカッタ)などの輸出港に運び、外国とくにイギリスからの輸入品を内陸各地に輸送するために建設された。したがって、インドにまとまりのある国内市場をつくることには寄与せず、その一方で、鉄道会社は経費節減等のため路線ごとに異なるゲージ(軌間)を用いたので、国内市場はむしろ分断されたのであった。また、ロンドンの金融市場で募集されたインド鉄道債には通常より高い利子率がインド帝国政府によって保証され、その利子は鉄道が赤字であってもインド人の支払う税金によって支払われた。さらに、インド農業は自給目的の食糧生産を中心とするものから次第に輸出用の商品作物生産にシフトしてきたので、いったん不作になると、しばしば深刻な飢饉に襲われた。総じて、インドの鉄道はインド経済を低開発状態のままに固定する役割を果たしたのである。もとより、鉄道が道路事情のわるいインドに交通革命をもたらしたのも事実であり、都市や巡礼地にはインド各地から多くの人びとが流入した。しかし、鉄道会社における人びとの職種や列車における客室の等級などにおいては、人種的な差別がインド人同士のカースト間の差別よりもいっそう露骨で明瞭なかたちをとったのであり、インドにおける反英運動が鉄道建設と同時に始まったのは必ずしも偶然ではなかった。 アフリカは、鉄道の普及に関しては他大陸と比較していっそう遅れていた。ただし、19世紀後葉にはエジプトやアルジェリアなど植民地化が比較的早く進んだ北部アフリカや鉱産資源の豊富な現在の南アフリカ共和国の地域(ケープ植民地、オレンジ自由国、トランスヴァール共和国など)では鉄道建設が始まった。しかし、1880年代以降ヨーロッパ人が殺到したサハラ砂漠以南の熱帯アフリカでは、たとえ有望な鉱産資源が見つかっても鉄道建設にすぐに結びついたわけではなかった。吸血性のツェツェバエがアフリカ睡眠病を媒介するため荷物運搬用の大型役畜を用いることができず、荷物を運ぶには人力に拠るしかなかったからである。もっぱら人力に頼るこのような交通事情を克服するために着手された鉄道建設に際しても、最初、すべての資材・機材の運搬を人力に頼らざるを得ないというディレンマに陥った。ベルギー王レオポルド2世の私的植民地であったコンゴ自由国では、1890年、マタディ・レオポルドヴィル鉄道の建設に着手し、建設労働者の多くは険しい地形やマラリア、赤痢などの感染症、脚気などで命を落とし、やがてアフリカ各地、カリブ海沿岸地域、中国などからも人夫を集めたが、暴動が起こったり、逃亡する者や病死者が相次いだりして建設は遅々として進まず、ようやく8年後の1898年に完成している。これは一例であるが、このように現地の人びとの多大な犠牲のもとに建設された鉄道も、内陸部に大都市のほとんどない熱帯アフリカ各地にあっては旅客輸送で収益をあげることができず、ヨーロッパ人による資源の収奪に役立つのみであり、アフリカ人自身にはほとんど恩恵をもたらさなかった。
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