中国分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/10 14:54 UTC 版)
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中国分割(ちゅうごくぶんかつ、繁体字: 瓜分中國, 瓜分清朝, 瓜分風潮、英語: Scramble for China)または利権争奪(りけんそうだつ、英語: Scramble for Concessions)は、1890年代後半に欧米が清朝を分割した出来事、また積極的に漢土を勢力圏としようとする新帝国主義的な思想を指す。
ただし、アメリカの国務長官は1899年に「門戸開放政策」を打ち出し、ヨーロッパ列強が中国を植民地として切り分けようとするのを阻止し、関心を持つすべての列強が中国に平等にアクセスできるようにすることを提案した。
解説

この政策は徐々に大国に受け入れられ、20世紀初頭には中国分割の概念は一般的に支持されなくなった。
中国のマスコミはこの出来事を「瓜分の切りわけ」と表現し、現代中国の作家は百年国恥[注釈 1]の一部とみなしている。同国のマルクス主義史家は、この時期の中国を西洋諸国による支配のために半植民地とみなした。一方、西ヨーロッパ列強によるアフリカ分割も同時期に出現し、1914年までにアフリカ大陸のほぼ全域が直接植民地化された。
註釈
- ^ 第一次アヘン戦争(1839-1842年)に始まり、1949年に中華人民共和国が建国されて終わった
出典
中国分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:41 UTC 版)
「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「中国分割」の解説
1894年の日清戦争で清に勝利した日本は巨額の賠償金と重要な海軍拠点の旅順を含む遼東半島を獲得した。これに対してロシア政府は蔵相ヴィッテの主導で「日本の南満州支配は認められない」という声明を出し、開戦も辞さない態度で日本を脅迫した。さらに外相アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーの主導でフランスやドイツの支持も得て、日本に三国干渉をかけ、遼東半島を清に返還させた。これにより日露関係は急速に悪化した。 一方日本に対して巨額の賠償金を負った清は、その支払いのためにロシアから借款を余儀なくされた(厳密にはロシアが同盟国フランスから借款した金を清が又借りする形の対ロシア借款)。その見返りとして清政府は露仏両国に中国における様々な権益を認めざるをえなくなり、列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来の中国のイギリス一国の半植民地(非公式帝国)状態が崩壊していくこととなる。 とりわけヴィッテが中国分割に強い意欲を持っていた。鉄道建設にあたってはロシアを横断するより満洲の地を使った方が安上がりであり、中国北部市場をロシアの独占市場にするうえでも有利と考えられたからである。1896年にヴィッテは訪露した清の大臣李鴻章と露清密約を締結した。これによりロシアは中国を日本から防衛する代わりに満洲にロシア鉄道を敷設する権利を獲得した。鉄道の土地の管理権と検察権も付属しており、典型的な帝国主義的進出だった。これによりロシアは満洲に強固な足場を獲得し、とりわけハルビンはロシア植民地と化していった。 1897年11月に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が山東省に派兵し、膠州湾を占領し、そのまま清政府から同地を租借地として獲得した。危機感を抱いたニコライ2世は11月26日にもその対策会議を招集した。外相ミハイル・ムラビヨフ(ロシア語版)は「イギリス軍が報復措置で旅順を占領する可能性が高く、先手を打って我々が旅順を占領する必要がある」と主張したが、ヴィッテはその主張に反対した。会議全体の流れも反対派が有力だったので、この会議ではニコライ2世は旅順占領案を却下した。しかしニコライ2世は極東に不凍港を欲しがっていたため、その二週間後にはムラビヨフ外相の説得を受け入れる形で前言撤回し、旅順占領を決定した。こうして翌12月に遼東半島の旅順と大連にロシア軍艦が派遣されることになり、清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とし、旅順艦隊(太平洋艦隊)を常駐させるとともに、「満洲と清領トルキスタンはロシアの独占的勢力圏である」との宣言を発することになった。イギリス首相ソールズベリー侯もドイツとロシアに対抗して山東半島の威海衛を占領して同地を租借した。日本は3年前の三国干渉で「清の領土を保全せよ」という名目で旅順を放棄させられたから、結局旅順がロシアに取られたことを口惜しがった。 列強諸国による中国分割に反発した義和団が1899年から1900年にかけて北中国を中心に義和団の乱を起こした。乱自体は列強諸国の連合軍によってただちに叩き潰されたが、ロシア軍はこれを口実に満洲を軍事占領した。日英米の抗議を受けてロシアは撤兵を約束したにも関わらず履行期限を過ぎても撤退せずに駐留軍の増強を図り、さらに権益を拡大するなど極東進出を強引に推し進めた。これには日本もイギリスも憤慨し、1902年1月の日英同盟の締結に繋がった。
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