中国分割
中国分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:41 UTC 版)
「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「中国分割」の解説
1894年の日清戦争で清に勝利した日本は巨額の賠償金と重要な海軍拠点の旅順を含む遼東半島を獲得した。これに対してロシア政府は蔵相ヴィッテの主導で「日本の南満州支配は認められない」という声明を出し、開戦も辞さない態度で日本を脅迫した。さらに外相アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーの主導でフランスやドイツの支持も得て、日本に三国干渉をかけ、遼東半島を清に返還させた。これにより日露関係は急速に悪化した。 一方日本に対して巨額の賠償金を負った清は、その支払いのためにロシアから借款を余儀なくされた(厳密にはロシアが同盟国フランスから借款した金を清が又借りする形の対ロシア借款)。その見返りとして清政府は露仏両国に中国における様々な権益を認めざるをえなくなり、列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来の中国のイギリス一国の半植民地(非公式帝国)状態が崩壊していくこととなる。 とりわけヴィッテが中国分割に強い意欲を持っていた。鉄道建設にあたってはロシアを横断するより満洲の地を使った方が安上がりであり、中国北部市場をロシアの独占市場にするうえでも有利と考えられたからである。1896年にヴィッテは訪露した清の大臣李鴻章と露清密約を締結した。これによりロシアは中国を日本から防衛する代わりに満洲にロシア鉄道を敷設する権利を獲得した。鉄道の土地の管理権と検察権も付属しており、典型的な帝国主義的進出だった。これによりロシアは満洲に強固な足場を獲得し、とりわけハルビンはロシア植民地と化していった。 1897年11月に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が山東省に派兵し、膠州湾を占領し、そのまま清政府から同地を租借地として獲得した。危機感を抱いたニコライ2世は11月26日にもその対策会議を招集した。外相ミハイル・ムラビヨフ(ロシア語版)は「イギリス軍が報復措置で旅順を占領する可能性が高く、先手を打って我々が旅順を占領する必要がある」と主張したが、ヴィッテはその主張に反対した。会議全体の流れも反対派が有力だったので、この会議ではニコライ2世は旅順占領案を却下した。しかしニコライ2世は極東に不凍港を欲しがっていたため、その二週間後にはムラビヨフ外相の説得を受け入れる形で前言撤回し、旅順占領を決定した。こうして翌12月に遼東半島の旅順と大連にロシア軍艦が派遣されることになり、清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とし、旅順艦隊(太平洋艦隊)を常駐させるとともに、「満洲と清領トルキスタンはロシアの独占的勢力圏である」との宣言を発することになった。イギリス首相ソールズベリー侯もドイツとロシアに対抗して山東半島の威海衛を占領して同地を租借した。日本は3年前の三国干渉で「清の領土を保全せよ」という名目で旅順を放棄させられたから、結局旅順がロシアに取られたことを口惜しがった。 列強諸国による中国分割に反発した義和団が1899年から1900年にかけて北中国を中心に義和団の乱を起こした。乱自体は列強諸国の連合軍によってただちに叩き潰されたが、ロシア軍はこれを口実に満洲を軍事占領した。日英米の抗議を受けてロシアは撤兵を約束したにも関わらず履行期限を過ぎても撤退せずに駐留軍の増強を図り、さらに権益を拡大するなど極東進出を強引に推し進めた。これには日本もイギリスも憤慨し、1902年1月の日英同盟の締結に繋がった。
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中国分割
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「中国分割」の解説
1895年の日清戦争で清が日本に敗れて以降、中国大陸をめぐる情勢は一変した。日本への巨額の賠償金を支払うために清政府はロシアとフランスから借款し、その見返りとして露仏両国に清国内における様々な権益を付与する羽目となったのである。これがきっかけとなり、急速に列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来の清のイギリス一国の半植民地(非公式帝国)状態は崩壊した。 とりわけ、シベリア鉄道の満洲北部敷設権獲得に代表されるロシアの満洲や北中国への進出は激しかった。フランスもフランス領ベトナムから進出して雲南省・広西省・広東省・四川省など南中国を勢力圏に収めていき、北中国を勢力圏とするロシアと連携してイギリスを挟撃してくる恐れが生じた(ロシアとフランスは1893年に露仏同盟を締結しており、三国干渉に代表されるように中国分割においても密接に連携していた)。 これに対抗してソールズベリー侯爵は清国の領土保全を訴えることで露仏が中国大陸におけるイギリスの権益を食い荒らすのを防ごうとした。さらに1896年3月にはドイツ帝国と連携して露仏に先んじて清政府に対日賠償金支払いのための新たな借款を与えることで英独両国の清国内における権益を認めさせた。また1896年1月にはフランスと協定を締結し、英仏両国ともメコン川上流に軍隊を駐屯させず、四川省と雲南省を門戸開放することを約定した。これによってフランスの北上に一定の歯止めをかけることに成功した。 1897年に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が清に出兵し、膠州湾を占領し、そのまま同地を租借地として獲得した。これについてソールズベリー侯爵ははじめドイツがロシアの南下政策に対する防波堤になるだろうと考えて歓迎していたが、ヴィルヘルム2世が山東半島全体をドイツ勢力圏と主張しはじめるに及んで警戒感を強めた。 さらに1898年に入るとロシアが遼東半島の旅順を占領し、さらに大連にも軍艦を派遣し、清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とした。これに対抗してソールズベリー侯爵はこれまでの「清国の領土保全」の建前を覆して、清政府に砲艦外交をしかけて、山東半島の威海衛を「ロシアが旅順占領をやめるまで」という期限でイギリス租借地とした。だが同時にドイツが露仏と一緒になってこの租借に反対することを阻止するために山東半島をドイツ勢力圏と認める羽目にもなった。これはイギリス帝国主義にとって最も重要な揚子江流域(清国の総人口の三分の二が揚子江流域で暮らしている)にドイツ帝国主義が進出していくことを容認するものとなり、イギリスにとって大きな痛手だった。 1899年に入った頃にはロシア帝国主義の満洲と北中国全域の支配体制はより盤石なものとなっていた。ロシアがこの地域に関税をかけるのも時間の問題だった。ソールズベリー侯爵はロシア勢力圏に門戸開放させることを決意したが、威海衛や九竜半島を租借しているイギリスが門戸開放を主張しても説得力がなかった。そこで中国分割に出遅れたアメリカに門戸開放を主張させようとし、アメリカの世論や政府を門戸開放論に誘導した。その結果、1899年6月にアメリカ国務長官ジョン・ヘイがイギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本・イタリアといった中国内に勢力圏を築いている列強諸国に対して門戸開放を求める宣言を発した(門戸開放宣言)。だが各国とも留保条件を付ける返答をし、ロシアに至ってはほとんど拒否に近い返答を出した。門戸開放によるロシア帝国主義の抑止というソールズベリー侯爵の目論見は失敗に終わった。
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