中国分割をめぐって
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「アーサー・バルフォア」の記事における「中国分割をめぐって」の解説
1895年の日清戦争で清が日本に敗れ、日本に対して負った巨額の賠償金を支払うために清政府がロシア帝国とフランスから借款し、その見返りとして露仏両国が清国内に様々な権益を獲得した。これがきっかけとなり、急速にイギリス、ロシア、フランス、ドイツ、日本など列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来のイギリス一国の中国半植民地(非公式帝国)状態は崩壊した。 とりわけ急速に北中国を勢力圏としていくロシアとの対立が深まった。バルフォアは1898年8月10日の庶民院での演説で中国分割において「勢力圏」という概念は否定されるべきであり、代わりに「利益範囲」という概念を導入すべきと主張した。これは範囲内において範囲設定国は他国企業を排除できる権利を有するが、通商の門戸は常に開放しなければならないというものでイギリス資本主義の利益に沿った主張だった。一方ロシアはあくまで北中国を排他的な自国の独占市場、つまり勢力圏とする腹積もりだったから北中国を門戸開放する意志などなかった。 バルフォアの演説の直後の1898年8月12日にはベルギー企業が清政府から京漢鉄道を借款する契約を結んだが、これに危機感を抱いたバルフォアは外相(首相ソールズベリー侯が兼務していた)代理として清政府と交渉を行い、9月6日にもイギリスに5本の鉄道敷設権を与えることを認めさせた。 一方1898年6月から起こっていた中国東北部の鉄道敷設権をめぐる英露両国の論争ではロシアから妥協を引き出せず、1899年4月に締結された英露両国の協定は、「イギリスは長城以北に鉄道敷設権を求めない。ロシアも揚子江流域に鉄道敷設権を求めない」ことを確認したのみとなり、その範囲内における自国企業独占や通商自由化を保障し合うことはできなかった。 1900年5月から8月にかけて中国半植民地化に反発した義和団が北中国で蜂起した(義和団の乱)。乱自体は列強諸国によってただちに叩き潰されたが、ロシアはこれを理由に満洲を軍事占領した。これに対抗すべくバルフォアは植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンや枢密院議長デヴォンシャー公爵ら自由統一党の面々とともにドイツ帝国や日本との連携を強化してロシアを抑え込むべきことを主張した。 結局ドイツはロシアとの対立を回避したのでイギリスは日本と接近することになり、1902年1月30日にも5年期限の日英同盟が締結された。
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中国分割をめぐって
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「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「中国分割をめぐって」の解説
長らく中国はイギリスの非公式帝国状態で落ち着いていたのだが、1895年の日清戦争で清が日本に敗れて以降、中国情勢は一変した。日本への巨額の賠償金を支払うために清政府は露仏から借款し、その見返りとして露仏両国に清国内における様々な権益を付与し、これがきっかけとなり、急速に列強諸国による中国分割が進み、阿片戦争以来のイギリス一国の半植民地状態が崩壊したのである。とりわけ満洲や北中国を勢力圏にしていくロシアと、フランス領ベトナムから進出してきて南中国を勢力圏にしていくフランスはイギリスにとって脅威であった(この両国は1893年に露仏同盟を結んでおり、三国干渉に代表されるように中国分割でも密接に連携していた)。 これに対抗して首相ソールズベリー侯爵は「清国の領土保全」「門戸開放」を掲げて露仏の増長に歯止めをかけようとした。一方ヴィクトリアはヨーロッパ列強諸国が調和して中国分割を行うことを希望し、「我々が我々以外の何者にも分け前を渡すつもりがないという印象を列強に与えないように注意しなければならない。しかし同時に我が国の権利と影響は死守せねばならない」と第一大蔵卿アーサー・バルフォアに訓令している。だがヴィクトリアは非ヨーロッパの日本の増長は面白く思っておらず、三国干渉の際にはロシアとともに東京に圧力をかけたがっていた。 1897年11月に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が山東省に派兵し、膠州湾を占領して、そのまま清政府から同地を租借地として獲得し、山東半島全域をドイツ勢力圏と主張し始めるようになった。これに対抗してロシア皇帝ニコライ2世も翌12月に遼東半島の旅順と大連に軍艦を派遣して占領し、清政府を威圧してロシア租借地とした。首相ソールズベリー侯爵もこれまでの「清国の領土保全」の建前を覆して、山東半島の威海衛に軍艦を派遣して占領してイギリス租借地とした。だが同時にドイツが露仏と一緒になってこの租借に反対することを阻止するために山東半島をドイツ勢力圏と認める羽目にもなった。これはイギリス帝国主義にとって最も重要な揚子江流域(清国の総人口の三分の二が揚子江流域で暮らしている)にドイツ帝国主義が進出していくことを容認するものとなり、イギリスにとって大きな痛手だった。 列強の中国分割に反発した山東省の農民たちは、1900年6月に「扶清滅洋」をスローガンに掲げる秘密結社義和団を結成し、20万人もの数で北京に押し寄せてきて、ドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラー(ドイツ語版)男爵を殺害した。義和団を味方につけて強気になった西太后は清朝皇帝光緒帝の名前で列強諸国に宣戦布告した。真っ先に危険にさらされたのは北京・外国公使館街に駐在している外国人たちだった。彼らはキリスト教に改宗した中国人とともに公使館街にバリケードを築いて清軍や義和団の攻撃を防いだ。公使を殺害されたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が真っ先に援軍を清に送り込むことを決定。イギリス政府としても援軍を送らないわけにはいかなかったし、ヴィクトリアも援軍派遣を希望したが、イギリス軍は目下ボーア戦争中であり、極東に割く余分な兵力はなかったので日本に協力を要請した。日本政府はこれを快諾し、2万の兵を清に送り込んだ。これを聞いたヴィクトリアは素直に日本に感謝し、駐英日本公使林董に「貴国が派兵を約束してくださったと聞いて感謝の念に堪えません」と述べている。日本軍とロシア軍を主力とする8か国連合軍は、8月に義和団や清軍を倒して、西太后や光緒帝を追って北京を占領し、外国公使街で立てこもっている人々を解放したのであった。
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中国分割をめぐって
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「ジョゼフ・チェンバレン」の記事における「中国分割をめぐって」の解説
1895年の日清戦争で日本に敗れた清は巨額の対日賠償金を負い、ロシア帝国とフランスから借款を余儀なくされた。両国はその見返りとしてロシア資本の満洲・北中国進出、フランス資本の南中国進出を認めるよう清政府に強要し、阿片戦争以来の清のイギリス一国の半植民地(非公式帝国)状態が崩壊し、列強諸国による中国分割が開始された。 とりわけロシアは1898年に遼東半島の旅順と大連に軍を派遣して租借地として強奪し、北中国における軍事的優位を確立していた。これについてチェンバレンはバーミンガムで「悪魔(ロシア)と食卓を共にする者には長いスプーンが必要です。イギリスがこれまでのような孤立主義をとっていたら、我々の中国内における利益は考慮されることなく、中国の命運は決定されていくことになるでしょう。」と演説し、中国分割において利害関係が最も近い列強国と同盟を結ぶことを示唆した。フランスはロシアの同盟国なので除外され、アメリカ合衆国はイギリス同様に海軍力に依存しているのでロシアに対抗する国にはなりえない。提携相手は相応の陸軍力を持った国でなければならなかった。 チェンバレンとハーティントン侯爵と第一大蔵卿バルフォアはその同盟相手としてドイツと日本をあげた。1900年の義和団の乱でロシアが満洲を軍事占領したのを契機として英独間で揚子江協定が締結されたが、ドイツは満洲についてこの協定を適用することを拒否し、ロシアとの対立を回避したため、結局イギリス政府はロシアの満洲・朝鮮半島への野心を恐れていた日本と同盟に向かうことになる。
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