中国分割における英露両国の動き
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「スコット・ムラヴィヨフ協定」の記事における「中国分割における英露両国の動き」の解説
ドイツ帝国は、1897年11月に山東省で起こったドイツ人のカトリック宣教師2人の殺害事件を口実に膠州湾を占領し、1898年3月、膠州湾の租借権と青島・済南間の鉄道敷設権を得て、さらに、膠州湾の背後にあたる山東省を勢力範囲として清国に承認させた。清国は、ドイツによる膠州湾占領に際して、ロシア帝国に介入を求めたが、ロシアは1897年12月、長崎港に停泊していたロシア太平洋艦隊を膠州湾ではなく旅順口へと差し向け、清に対し満洲・モンゴル方面における鉄道・産業の独占権と山海関鉄道(京奉鉄道(中国語版))沿線の港湾の租借権、および支線敷設権を要求した。これに対し、イギリスは北アメリカ大陸に英国艦隊を集結させ、山海関鉄道への借款供与を承認してロシアへの対決姿勢を鮮明にした。 イギリスは清に1200万ポンドの借款を供与し、下関条約で定められた日本への賠償金を肩代わりする代償として長江流域の不割譲とイギリス人による清国の海関における関税管理を要求し、清側もこれを認めた。さらにイギリスは、1898年6月には香港対岸の九竜半島の99年間の租借権を獲得し、7月には威海衛の25年間租借にも成功した。列強は、日清戦争によってその軍事的弱体を露呈した清国にこれらの要求を認めさせたのみならず、清国と交渉することなく列強相互に協定を結んだのである。 ロシアのミハイル・ニコラエヴィッチ・ムラヴィヨフ外相は、こうしたイギリスの動向に譲歩して山海関鉄道の借款についてはある程度イギリスに譲る一方、1898年3月には清より、 旅順口・大連湾の25年間の租借権 ハルビンから遼東半島先端部に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権 を獲得した(旅順・大連租借に関する露清条約)。
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