中国化とロシア革命の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 06:03 UTC 版)
「中国正教会」の記事における「中国化とロシア革命の影響」の解説
1882年には、ミトロファン楊吉が中国人として初めて正教会の司祭となった。日本ハリストス正教会の会議に中国正教会を代表して出席するために東京を訪れた際、ニコライ大主教により叙聖されたもので、ミトロファン司祭は帰国後、中国語で礼拝を行い、少しずつ中国人正教徒が増えていった。 義和団の乱(1898年〜1900年)ではキリスト教徒が襲われた。正教会では、ミトロファン司祭を含めて222人が殺害された。450人ほどいた正教徒のおよそ半数が犠牲になったことを意味する。1900年6月に北京の宣教師の書庫に火が放たれ灰燼に帰し、6月10日にはミトロファン司祭が殺害され、致命者のひとりとしてイコンに描かれることになる。 1901年ペテルブルクでは北京宣教団の撤退が検討されたが、主教公会議では宣教を拡大していくことが決まる。1902年にはインノケンティー・フィグロフスキー宣教団長が主教に叙聖され、中国人に対して積極的に布教し、教会の中国化を進めた。これにより中国人正教徒が飛躍的に増えた。 1914年には北京とその周辺の46人の宣教師のうち11人が中国人を占めるようになった。ロシア革命の前夜には、北京宣教団の管理下に19教会があり、中国全土の信者総数は7000人以上を数え、男子宗教学校18校・女子宗教学校3校などで700人以上の生徒が学んでいた。 1917年のロシア十月革命、1930年代の農業集団化に伴う飢餓に際して数万人単位の正教徒が新疆、内モンゴル、満洲、ハルビン、天津などに移住した。多数のロシア人が押し寄せたことは、中国正教会が中国化していく流れを止めることになる一方、教会の発展を招き、教会のモスクワへの態度に影響した。 ロシア革命後、中国正教会はソビエト監視下のモスクワ総主教庁に対する従属関係を絶ち、在外ロシア正教会の管轄下に入ることとした。1944年にはモスクワ総主教庁との関係回復を申し出、翌1945年に北京府主教区はモスクワ総主教庁の管轄下に入った。中国正教会は、これに賛同する北京・漢口・ハルビン・新疆と、反対し在外ロシア正教会所属にとどまることを主張する上海・天津との二派分裂状態となった。上海のイオアン・マキシーモヴィッチ府主教(上海のイオアン)は1948年に多数の白系ロシア人とともにフィリピンに渡り、翌年アメリカに政治亡命した。 1949年までに、中国正教会は106の教会を数えるまでになった。これらの教会の教区民は、概してロシア人亡命者であったが、漢族信徒は、およそ1万人いた。
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