帝国伯、黒鷲勲章の受章者として
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「ハンス・アルブレヒト・フォン・バーフース」の記事における「帝国伯、黒鷲勲章の受章者として」の解説
バーフースは1699年、皇帝レオポルト1世によって帝国伯に叙せられた。この陞爵を1691年に辞退していた彼も、今度は喜んで拝受する。なぜなら、それまでにデンホフ伯女エレオノーレ(ドイツ語版)と結婚し、二人の子供を授かっていたからである。伯位の証書に署名が行われたのは、1699年9月10日のことであった。 「朕(レオポルト1世)が慈悲深くも(中略)古く、高貴で騎士としての出自の徳、大いなる理知、巧緻と軍役の中で勝ち得た格別な経験ゆえに称えられた元帥にして軍務長官、アルブレヒト・フォン・バーフースを鑑みる時、(中略)それは突進する手とともに奪取したオーフェン要塞と、選帝侯閣下(Liebden)が最近終戦を迎えたトルコ戦争にて大敵に対し、キリスト教徒の名において派遣した6,000名の援軍をスランカメンで行われた血なまぐさい戦いで適切かつ勇敢に率い、かくも大胆不敵にして英雄的な勇気と決意を示し、その際に彼が並外れた勇気と巧緻を証し、朕に対する全ての将官からの推薦をもって、彼とその思い起こされる援軍にも勝ち取られた大勝利への少なからぬ貢献を正当にも認めるからである。 (中略)ゆえに朕はこれに従い、かくも古き出自に忠実で有益な奉仕を自ら認め、自らの決意、熟慮、気持ち、助言と正しき判断によって彼、ハンス・アルブレヒト・フォン・バーフースに現在及び将来の婚姻を通じた全ての嗣子ともども、一族の子孫の系統にも永遠に、朕と神聖ローマ帝国、また世襲の王国、侯領と諸邦の伯爵並びに女伯の身分と栄誉を授け、双方の父母が四代に遡って由緒正しき伯爵と女伯であったと見なすものである。」 1699年10月29日、帝国伯の身分は選帝侯の布告によって承認された。フリードリヒ3世は1699年の秋、バーフース元帥と侍従長コルベ・フォン・ヴァルテンベルク伯を伴い、ノイマルクとポンメルンを訪れた。選帝侯はキュストリンとシュタルガルトに入城する際、祝典を開いている。シュタルガルトでは、元帥が連隊長を務める胸甲騎兵連隊が隊列の先頭に立った。またバーフースは同年、ラントクライス・オーバーアルニム(ドイツ語版)の父祖の所領を兄弟に譲った後、ブランデンブルク辺境伯領、ベースコウ一帯の農場を購入している。1699年7月、オッペン家(ドイツ語版)のフリードリヒ・ヴィルヘルム(1664年-1709年)からコッセンブラットとヴェルダー(ドイツ語版)の村を32,000ターラー及び100ドゥカートの権利金と引き換えに買い取った。フリードリヒ・ヴィルヘルムの祖母、カタリーナは彼の親戚だったのである。1700年には所領を整理するべく、パンヴィッツ家(ドイツ語版)のハンスとアーダムからブリーシュト(ドイツ語版)の騎士領を、1702年にはカスパー・フォン・オッペン(1683年6月10日出生)からメルキシェ・ハイデ(ドイツ語版)の、「シュプラウハイデ」と養羊場を伴う世襲封土であるヴィーゼとプラットコウを購入した。 選帝侯は独立したプロイセン公国のために王位を購うという計画に、すでに長期間にわたって取り組んでいた。宰相のダンケルマンは常に反対しており、選帝侯の不興を買う。皇帝レオポルト1世はスランカメンの勝利によってすでに好意的になっていた上、自身の聴罪司祭も買収されていた。最終的に1700年11月6日、正式な条約が締結される。選帝侯フリードリヒ3世は12月17日、ベルリンを出発して国王としての戴冠式を挙行するためケーニヒスベルクへ向かった。バーフースは軍の代表者としてフリードリヒに随伴した。1701年1月17日、プロイセンにおける最高の勲章として黒鷲勲章が制定されると、同日中にもバーフースはこれを授かっている。
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