戦後の産経新聞周辺とは? わかりやすく解説

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戦後の産経新聞周辺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 08:59 UTC 版)

前田久吉」の記事における「戦後の産経新聞周辺」の解説

戦後、再び上京時事新報復刊目指した同紙元主筆慶応義塾大学名誉教授板倉卓造請われ戦前終刊責任もあり関与して復刊実現したが、マスメディア経営者として戦争協力する論陣張ったとして1946年昭和21年)から4年間、公職追放遭った1950年昭和25年10月追放解除により、大阪新聞産業経済新聞社長に復帰直後板倉から時事新報社経営引き継ぐとともに時事新報続いて産業経済新聞東京本社版発行開始した。この拠点として東京有楽町オフィスビル取得跡地には現在「ラクチョウビル」が建ちフジサンケイグループサンケイビル運営する雑居ビルとなっている。 詳細は「産経新聞東京本社#概要」および「公職追放#マスコミ」を参照 1951年昭和26年)、東京発行されていた『世界経済新聞』を統合産業経済新聞東京本社版朝夕セットでの発行となる。『世界経済新聞』は1948年頃には『世界日報』の紙号を使っていて、題字は後に、世界基督教統一神霊協会中心となって創刊され同名保守系一般紙転用された。 「世界日報 (日本)#概要」も参照 1952年昭和27年)、空撮分野強化目的に、産経新聞東京本社航空部産経航空事業)を母体とする「日本観光飛行協会」を設立同社はすぐに日東航空社名変更し、日本国内航空東亜国内航空日本エアシステム経て2002年平成14年)の「JJ統合」で日本航空JAL)の前身となった1955年昭和30年)、産業経済新聞東京本社移転するため東京・大手町の国有地取得東京産経会館(現・東京サンケイビル)を建設した前田東京産経会館ベース産業経済新聞社改組東京本社大阪本社それぞれ独立した経営体制移行させる。そして分離独立した「株式会社産業経済新聞東京本社」と「産業経済新聞社大阪本社)」両社代表取締役会長就任戦時統合以来経済専門紙から一般紙転換し朝日毎日讀賣に次ぐ第4の全国紙として育成したまた、時事新報産経東京本社版合同して『産経時事』とする。時事新報社業務一切産業経済新聞社受託するという形で休眠会社化し存続将来復刊可能性を探ることにした。 一方時事新報主筆務めていた板倉産経時事論説委員長兼主筆就任産経新聞となった後の1960年昭和35年)、高齢理由依願退職するまで第一線ジャーナリストとして活躍した

※この「戦後の産経新聞周辺」の解説は、「前田久吉」の解説の一部です。
「戦後の産経新聞周辺」を含む「前田久吉」の記事については、「前田久吉」の概要を参照ください。

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