戦後の産経新聞周辺
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戦後、再び上京。時事新報復刊を目指した同紙元主筆で慶応義塾大学名誉教授の板倉卓造に請われ、戦前の終刊の責任もあり関与して復刊を実現したが、マスメディア経営者として戦争に協力する論陣を張ったとして1946年(昭和21年)から4年間、公職追放に遭った。1950年(昭和25年)10月、追放解除により、大阪新聞と産業経済新聞の社長に復帰。直後、板倉から時事新報社の経営を引き継ぐとともに、時事新報に続いて産業経済新聞東京本社版の発行を開始した。この拠点として東京・有楽町のオフィスビルを取得。跡地には現在「ラクチョウビル」が建ち、フジサンケイグループのサンケイビルが運営する雑居ビルとなっている。 詳細は「産経新聞東京本社#概要」および「公職追放#マスコミ」を参照 1951年(昭和26年)、東京で発行されていた『世界経済新聞』を統合、産業経済新聞東京本社版は朝夕刊セットでの発行となる。『世界経済新聞』は1948年頃には『世界日報』の紙号を使っていて、題字は後に、世界基督教統一神霊協会が中心となって創刊された同名の保守系一般紙に転用された。 「世界日報 (日本)#概要」も参照 1952年(昭和27年)、空撮分野の強化を目的に、産経新聞東京本社航空部(産経の航空事業)を母体とする「日本観光飛行協会」を設立。同社はすぐに日東航空と社名変更し、日本国内航空、東亜国内航空、日本エアシステムを経て、2002年(平成14年)の「JJ統合」で日本航空(JAL)の前身となった。 1955年(昭和30年)、産業経済新聞東京本社を移転するため東京・大手町の国有地を取得。東京産経会館(現・東京サンケイビル)を建設した。前田は東京産経会館をベースに産業経済新聞社を改組。東京本社・大阪本社、それぞれ独立した経営体制に移行させる。そして分離独立した「株式会社産業経済新聞東京本社」と「産業経済新聞社(大阪本社)」両社の代表取締役会長に就任。戦時統合以来の経済専門紙から一般紙に転換し、朝日、毎日、讀賣に次ぐ第4の全国紙として育成した。また、時事新報と産経東京本社版を合同して『産経時事』とする。時事新報社は業務の一切を産業経済新聞社が受託するという形で休眠会社化し存続、将来の復刊の可能性を探ることにした。 一方、時事新報の主筆を務めていた板倉も産経時事の論説委員長兼主筆に就任、産経新聞となった後の1960年(昭和35年)、高齢を理由に依願退職するまで第一線のジャーナリストとして活躍した。
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