戦後の発展
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1950年8月12日、戦後初めて開催された日米水上競技大会(大阪市営プール)において、高橋清彦は「楽水群像」と音楽(宝塚歌劇団の高橋廉が作曲した)を組み合わせて披露した。音楽と群舞が組み合わされたことにより、現代のアーティスティックスイミングに一層近づいたものとなった。一方で、競技として発展するには、1954年の「シンクロ」の紹介に始まる本格的受容を待つ必要があったとも評価される。
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戦後の発展
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戦後、アメリカ海軍はLCTをLCUと改名し、まずLCU-1466級を配備した。これはLCT-1級(Mk.5)と同様、操舵室を後部中央に設けていた。しかし続いて建造されたLCU-1610級では、再びLCT-501級(Mk.6)と同様の全通車両甲板とされている。LCU-1610級には、揚陸艦のウェルドックへの収容を前提に、マストなどを起倒式とした艦載型もある。 またこれらの米英の艇に範をとって、複数の大型車両(戦車を含む)を搭載可能な大型上陸用舟艇が各国で建造されており、これらもLCUと称されることがある。このうち、海上自衛隊の輸送艇1号型は、「揚陸艇」としてよりは通常の輸送艦としての任務を重視した設計になっており、戦車の搭載能力は持たない。またフランス海軍では、双胴船型のLCUであるL-CAT型を運用中である。
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フランスによるシュトゥットガルト占領に関連して、少なくとも1389件の暴力事件が起こった。1945年7月8日にフランスの占領軍は、何度も催促された後、シュトゥットガルトをアメリカ兵に譲り渡した。これ以後この都市は、アメリカ管理地域(ドイツ語版)に属した。シュトゥットガルトは、1945年から1952年まで存在したヴュルテンベルク=バーデン州(ドイツ語版、英語版)の州都であった。 軍事政府は、強制移住させられた人々 (Displaced Persons = DP) を収容するためのDP-収容所をシュトゥットガルトに建設した。その多くは、この地域の工業系企業で強制労働に就かされていた中欧や東欧出身であった。ラインスブルク通りのシュトゥットガルト=ヴェスト DP-収容所は、最終的には、ホロコーストを生き延びた1400人以上のユダヤ人を収容した。1946年3月29日の朝に行われた警察による捜査の際、この収容所は約130人の警備警察と80人の官吏によって封鎖された。警察によれば、その原因は闇市との戦いであった。青年の逮捕に関する収容者と警察との暴力的紛争の中で、銃が発射され、アウシュヴィッツ強制収容所から帰還した直後のユダヤ人青年ザムエル・ダンツィガーが警察のピストルで頭を撃たれて死亡した。この事件の結果、アメリカ軍のヨーロッパにおける総司令官ジョセフ T. マクナーニー(英語版)の命令により、ドイツの警察はアメリカ軍事政府の許可なしに収容所内に立ち入ることを禁じられた。この収容所は1959年に閉鎖され、収容されていた DP はハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ(ドイツ語版、英語版)に移送された。 1948年、当時まだ定められていなかった連邦共和国の新首都への立候補は、主に高すぎる財政負担のために挫折した(年間100万ドイツマルクの賃料が必要)。シュトゥットガルトの他には、フランクフルト・アム・マイン、カッセル、ボンが立候補した。議会評議会の委員会は、これら全ての都市について適合性調査を行っていた。 戦後、建築文化的にとりわけ重要なシュトゥットガルトのマルクト広場をはじめとして歴史的建造物の再建のような復興は、特に上級市長のアルヌルフ・クレット(ドイツ語版、英語版)のイデオロギー上の意向でその多くが拒絶された。市の廃墟は、ビルケンコプフ(ドイツ語版、英語版)に瓦礫の山として積み上げられた。復興は主に近代主義的なイデアと、住宅地、商業地、工業地を機能的に分離するアテネ憲章に則って行われた。その理念は車中心の都市を創り上げることであった。このため全くあるいはほとんど損傷のなかった道路や広場もすべて取り壊された。フリードリヒ・シラーの没後150年にあたる1955年、新宮殿の近くにあった彼の母校ホーエ・カールスシューレ(ドイツ語版、英語版)が、連邦道(ドイツ語版、英語版) B14号線(コンラート=アデナウアー通り)の拡幅のために取り壊された。こうした厳しい建設ポリシーは、すでに同時代から部分的に強く批判された。
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戦後の発展
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藤原歌劇団は、敗戦後半年も経ない1946年(昭和21年)1月、帝国劇場での『椿姫』により舞台公演を再開する。同年秋にはGHQによる公職追放によって東京音楽学校主任教授の座を失った木下保(テノール)が歌劇団に参加し、ここまで10年超にわたり全ての演目の主役テノールを藤原義江が務めるという状態からはようやく解放され、主役は二枚看板となったが、藤原が出演しないと途端にチケット売行きが落ちたという。 1950年(昭和25年)には東京・赤坂にオーケストラ付の立稽古も可能な「歌劇研究所」を建設(三井高公の資金援助による)。研究所には一時近衛秀麿のABC交響楽団も練習場を置いていた。 1952年(昭和27年)にNHKの依頼を受け、外国音楽家招聘のため渡米した藤原は、ニューヨーク・シティ・オペラに長らく日本で活動していた旧知のジョゼフ・ローゼンストックを訪ねる。藤原は同歌劇場での『蝶々夫人』の上演レベルのあまりの低さに立腹、日本人役をすべて日本人歌手が歌う公演をしてはどうか、と提案する。歌劇団の20名が参加したこの第1次アメリカ公演は、三宅春恵(ソプラノ)の蝶々さんを始めとする歌唱陣は一定の評価を得たが、藤原の交渉能力の低さから歌劇団には莫大な資金負担となってしまった(藤原は高松宮宣仁親王の口利きで日本興業銀行から100万円(200万円とも)を融通してもらい、後には棒引きしてもらったという)。1953年(昭和28年)第2次アメリカ公演『蝶々夫人』。同年藤原歌劇団青年グループ第1回公演プッチーニ『外套』(日本初演を多数。後「青年グループ」 として1966年(昭和41年)まで活動)。1956年(昭和31年)第3次アメリカ・カナダ公演『蝶々夫人』。 1958年(昭和33年)にイタリア留学帰りのソプラノ歌手桑原瑛子の主演で、日本で初めて原語による『トスカ』を上演した。以降も藤原歌劇団はイタリア・オペラを主軸としていく。1967年(昭和42年)韓国公演『カルメン』。1969年(昭和44年)5月の『ラ・ボエーム』で粟國安彦が演出助手を務める(この後粟國は1970年(昭和45年)渡伊)。 1972年(昭和47年)、団の共同創設者で第一回公演以来の協力者であったバス・バリトンの下八川圭祐が、藤原義江の委嘱により二代目総監督と団の運営を継承した。1976年(昭和51年)3月22日、初代総監督の藤原義江が死去。1977年(昭和52年)、チマローザ『秘密の結婚』から、イタリアから帰国した粟國安彦を演出に起用。粟國は1978年度(昭和53年度)第6回ウィンナーワルド・オペラ賞、1980年(昭和55年)芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。 1978年(昭和53年)から下八川共祐(下八川圭祐の息子)が制作を担当。1980年(昭和55年)3月18日、下八川圭祐が死去。下八川共祐が団体の代表となる。1981年(昭和56年)4月1日、下八川共祐が設立した財団法人日本オペラ振興会に事業を委譲。「藤原歌劇団」をオペラ公演事業部門における西洋オペラ部門の名称とし、団体は消滅する。
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第二次世界大戦後の1947年には、東武鉄道が東武自動車および日光軌道を再度合併し、以後2002年に分社化されるまでの東武鉄道のバス事業の基礎が確立された。その後も千葉、埼玉、群馬で路線の拡大を図っていく。また他の事業者の買収やグループ化なども行っており、1958年には阪東自動車を傘下に入れている。
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1945年12月1日、日東を中心に経営統合していた11社は「日本自動車交通株式会社」を設立し、12月29日に「日本交通株式会社」して今日に至っている。しかし、当初は共同経営者の出資持分の大半を日交成立時までに東急が肩代わりしていたため、川鍋秋蔵は社長には就任したものの、会長に当初は東京タクシーの品川主計、後に東急副社長の立花栄吉と東急側の人間が据えられ、主導権を東急側が握った。そして、1947年末頃からは、川鍋側と東急側の対立による川鍋排斥運動が展開されたが、最終的には五島慶太が、「実際に同社を執り仕切っている川鍋が自らオーナーとなって経営した方が良い」と判断し、1951年に川鍋に持株の大半を譲渡し、日本交通は名実ともに川鍋の会社となった。 その後もタクシーの屋根に行灯を乗せたり、1952年の時点で発売直後の国産車プリンス・セダンを120台一括購入したり、無線タクシー、LPG車、冷房車の導入の先頭を切るなど、業界改革のイニシアティブを取り続ける一方、1960年4月にはそれまで三団体に分裂していた東京のタクシー業界を一本化し、東京乗用旅客自動車協会を発足させたほか、二つ存在していた全国組織も同年7月に統一させ全国乗用旅客自動車連合会も発足させ、当時社会問題になっていた「神風タクシー」に対して業界の体質改善運動を行い、業界のリーダーとなった。 1970年代初頭に問題となったタクシー不足による乗車拒否、乱暴運転の横行に対しても、業界の体質改善に取り組むと同時に「タクシー下駄・靴論議」を展開し、業界の不祥事続発の根源の一つは、本来は多少ぜいたくな乗り物であるタクシーが長年低い料金に抑えられていることによると主張し、マスコミを通じて一般利用者にも理解を求め、東京タクシー近代化センター(現:東京タクシーセンター)設立への流れを作った。
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戦後の発展
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「ピオリア (アリゾナ州)」の記事における「戦後の発展」の解説
経済活動が活性化したことにルーク空軍基地ができたこととソルト川流域全体が著しく成長したことが合わさり、さらには1950年代初期にエアコンが大量生産されたこともあって、ピオリアの住宅が増加した。戦後の建設ブームでピオリアはフェニックスのベッドタウンになる道を歩み、州都に通う人々の住宅が西に拡がっていった。 1954年、ピオリアの人口は1,925人、市域面積は720エーカー (2.9 km²) だった。成長していく地域社会は上下水道などの重要なサービスを必要としており、非公式な政体だった商工会議所の能力を超えていた。ピオリアは多くの議論と懐疑論を経て1954年6月7日に市制を布いた。7人の委員による市政委員会が作られ6月14日に最初の会議を開いた。 1955年と1956年、通りを基本として住居表示システムが策定された。1960年、郊外の開発が大きな影響を与えた。デル・ウェブがサンシティの開発を始め、そのことでピオリアの人口も増えた。1966年までに市域面積3.1平方マイル (8.0 km²)、通り延長36マイル (58 km) となった。1968年、下水道システムを造るための市債を発行し、下水道は1969年に完成した。1970年、消防士を公的資金で雇用する仕組みに移行した。 ピオリアの人口は1970年の4,792人から1980年の12,351人、1990年の50,675人と成長していった。1980年から1990年の増加率だけでも300%を超えた。新しい住民を支援し、ピオリアで働くことができるようにするために、市は商業や工業の発展を促し、バランスの取れた経済を維持することを目指した。ピオリア経済発展グループが組織され、初めてのアイススケート施設、近代的映画館およびクラスAのジムスペースが造られるようになった。 1988年ピオリアのオールドタウン外れに3,000万ドルを掛けて市の複合施設建設が始まった。1989年に警察署が開設され、1991年には市役所本館と裁判所、1993年には図書館ができた。 ピオリアでのメジャーリーグベースボールの春季キャンプは長い歴史がある。1970年代後半から1990年代にかけて、ピオリア・グリーンウェイ・スポーツ複合施設はミルウォーキー・ブルワーズのマイナーリーグ用トレーニング施設に使われた。この小さな施設は83番アベニューとグリーンウェイ道路に位置し、後のピオリア・スポーツ・コンプレックスができる場所になった。新しい施設の建設は1990年に承認された。この施設は1994年に完工し、郡内では初のメジャーリーグ春季キャンプ施設となった。現在はサンディエゴ・パドレスとシアトル・マリナーズの2チームが春季キャンプと選手開発に利用している。 ピオリア市はこの施設に大きな投資を行い、毎年その運営に助成金を出している。スタジアムでは多くの観光客を呼び寄せ、コンサート、結婚式、ビジネス行事、ボートツアーおよび祭が開催されている。このことで、レストランやホテルも誘致できた。83番アベニューとベル・アローヘッド噴水を中心にする地域はウェストバレーでもレストランが多く集中した場所となっている。このスタジアムは経済的に引き合っただけでなく、周辺の土地を市が所有していたので、その売却が市の収入を増やし、地域の生活水準を確保できた。
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戦後の発展
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1948年(昭和23年)7月1日:上野 - 直江津間昼行不定期準急列車1往復運転開始。 1949年(昭和24年)9月15日:上述不定期準急列車の上野 - 長野間を定期列車化。 1950年(昭和25年)10月1日:上述準急列車の長野 - 直江津間を定期列車化。上野 - 直江津間夜行準急列車1往復が運転開始(上野 - 高崎間は上越線列車と併結)。 1951年(昭和26年)4月1日:上野 - 直江津間昼行準急に「高原」の愛称を設定。 1952年(昭和27年)10月1日:上野 - 直江津間夜行準急の運転区間を新潟まで延長。 1953年(昭和28年):「高原」混雑緩和のため上野 - 長野間に臨時準急「白樺」を運転開始。 1954年(昭和29年)10月1日:「高原」急行列車化の上運転区間を金沢まで延長し「白山」に改称。「白樺」を定期列車に格上げ。 1955年(昭和30年)7月1日:上野 - 長野間不定期準急列車「高原」が運転開始。 1958年(昭和33年)4月14日:上野 - 長野 - 直江津間夜行準急に「妙高」の愛称を設定。 1959年(昭和34年)7月18日:上野 - 金沢間臨時夜行急行「黒部」が運転開始。 1960年(昭和35年)6月1日:上野 - 長野間昼行客車準急「とがくし」が運転開始。 1961年(昭和36年)3月1日:小諸 - 新潟間(小諸 - 長野間は普通列車)気動車準急に「あさま」の愛称を設定。「妙高」の運転区間を直江津まで短縮。 5月1日:碓氷峠のアプト式区間対応の新製気動車キハ57系を投入した急行「志賀」が上野 - 長野間で運転開始。 10月1日:ダイヤ改正により以下の変更を実施。大阪 - 上野・青森間でキハ82系による特急「白鳥」が運転開始。なお同列車は信越本線初の特急列車である。 上野 - 長野間急行「丸池」運転開始。 「黒部」定期列車化。 「とがくし」気動車急行化。これにより「志賀」「丸池」および車両運用効率向上の観点による広域運用の実施により碓氷峠とは関係のない「ちくま」との4列車共通運用を実施する。 「白樺」を「妙高」に統合し昼行・夜行1往復ずつの運転。 1962年(昭和37年)3月1日:「丸池」「志賀」の一部編成を屋代で分割し、長野電鉄湯田中までの乗り入れを開始。 7月15日:上野 - 横川間にで80系電車準急「軽井沢」が運転開始。横川では軽井沢への専用連絡バスと接続も実施。 12月1日:上野 - 長野間夜行客車準急の愛称を「妙高」から「あさま」に変更。昼行「妙高」を急行列車に格上げ。この日以前に「あさま」の愛称は名古屋 - 新潟間急行列車に使用されていたが、同列車は「赤倉」に変更。 1963年(昭和38年)3月25日:長野 - 上諏訪 - 小淵沢 - 小諸 - 長野間循環準急「すわ」「のべやま」が運転開始。上諏訪先着が「すわ」小諸先着が「のべやま」 7月15日:碓氷峠のアプト式区間が粘着運転方式に変更され単線で営業運転を開始。また「軽井沢」を暫定的に全車指定席化し上野 - 長野間2往復運転に変更。 10月1日:碓氷峠区間粘着方式が複線運転化。アプト式完全廃止に伴い以下の変更を実施。「丸池」を「志賀」に統合。 準急「あさま」を急行列車化の上「丸池」に改称し直江津発着(長野 - 直江津間普通列車)に変更。 上野 - 長野間で165系電車による急行「信州」4往復運転開始。なおうち1往復は「とがくし」からの統合で、「とがくし」の愛称は同区間の夜行列車に転用。 「軽井沢」の運転区間を上野 - 中軽井沢間に延長。 1965年(昭和40年)10月1日:ダイヤ改正で以下の変更を実施。「白鳥」上野発着編成を大阪 - 金沢間「雷鳥」と上野 - 金沢間に系統分離させ、後者を「はくたか」に愛称変更。 上野 - 長野間全車指定席急行「信越いでゆ」が運転開始。 上野 - 福井間夜行急行「越前」が運転開始。 「軽井沢」1往復に減便。
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戦後の発展
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1956年9月1日、制度の開始とともに、政令指定都市に指定される。この頃から、相模鉄道を中心とした横浜駅西口の開発が始められた。1959年に行われた開港100周年記念祭では、横浜公園平和野球場(現・横浜スタジアム)で、横浜出身の美空ひばりや草笛光子が3万人の観客を前に歌った。1964年5月には根岸線(桜木町 - 磯子)が開通し、同年10月には東海道新幹線の開業に伴い、横浜線との交点に新横浜駅が開設された。横浜駅西口地下街が完成したのもこの年で、横浜駅西口は急速に発展し始めた。また、1960年代後半には中区の元町商店街が活況を呈し、元町ブランドで固めた山手の女子高生たちのファッションは、後に1970年代後半のハマトラ(横浜トラディショナル・ファッション)ブームへと繋がっていく。また、1966年には東急田園都市線(溝の口駅-長津田駅)が開業し、今まで寒村であった市北部が東京のベッドタウンの多摩田園都市として発展し始めた。 1963年、日本社会党の衆議院議員であった飛鳥田一雄が市長となり、「革新首長」のリーダー的存在となった。1965年1月、飛鳥田市政下、横浜市六大事業と呼ばれる都市計画プロジェクトに着手した。これは、(1) 横浜みなとみらい21に代表される都心部強化、(2) 金沢地先埋立事業による中小企業の集約化、(3) 港北ニュータウンの建設によるスプロール現象の抑制と良質な住宅街の提供、(4) 横浜市営地下鉄である高速鉄道建設事業、(5) 高速道路建設事業、(6) 横浜ベイブリッジ建設の6事業からなり、都市基盤の整備と中枢管理機能の充実を図るものである。 まず、高速道路建設に取りかかり、1968年には神奈川県道高速横浜羽田空港線(浅田 - 東神奈川)が開通する。1972年には横浜市営地下鉄(上大岡駅 - 伊勢佐木長者町駅)が開通した。また、1979年には横浜横須賀道路日野―朝比奈間が開通し、1981年には狩場―日野間を、1982年には朝比奈―逗子間と逗子―衣笠間を供用開始した。 1977年には金沢地先埋立が完成し、1990年に大黒埠頭の埋立(第2期)が完成すると、横浜の東京湾沿岸における大規模埋立事業は一段落した。日本社会党委員長として国政に復帰した飛鳥田のあとを受けて、1978年に市長となった細郷道一も、六大事業の推進に力を注いだ。1980年(昭和55年)には港北ニュータウンの入居が始まり、1985年には人口が300万人を超えた。また、1978年には横浜スタジアムが完成し、横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の本拠地となった。 1989年、市制100年と開港130年を記念して、横浜博覧会が開催された。同年には横浜ベイブリッジも開通し、1994年の鶴見つばさ橋開通と合わせて、首都高速湾岸線の整備・延伸が進んだ。1990年、急逝した細郷のあとを引き継いで市長となった高秀秀信は、六大事業の中心となる都心部強化、横浜駅周辺地区と関内地区の間を繋ぐ横浜みなとみらい21地区の整備を本格化させた。1993年には、みなとみらい21地区のシンボルとなる横浜ランドマークタワーが完成した。 高秀は、六大事業の継続に加え、港北ニュータウンや新横浜等における横浜市北部での新規事業を追加した。1999年(平成11年)よこはま動物園ズーラシアが開園し、1998年に完成した横浜国際総合競技場(現在の日産スタジアム)と横浜国際プールは高秀市政の象徴となった。2002年には、国際総合競技場で2002 FIFAワールドカップの決勝が行われ、国際プールではパンパシフィック水泳選手権が行われた。また、2002年には、横浜港大さん橋国際客船ターミナルの建替が完成した。横浜国際港都建設法に基く国際港都建設事業である横浜市内の都市計画道路は戦後進捗が遅れていたが、高秀市政期に事業化された区間も多く、一定の進歩が見られた。 2002年、高秀と争って新たに市長となった中田宏は財政改革、行政改革、医療と教育の民営化を軸にした政策を打ち出した。主な政策としては家庭廃棄物の分別収集、外郭団体の見直しや統廃合、公立病院や保育園の民営化、交通局や水道局の構造改革、新緑税導入、横浜都心の立地企業増加に向けた企業立地促進条例の制定、横浜港への客船寄港促進等を実施。2008年度(平成20年度)には、1961年度以来47年ぶりに、普通交付税の不交付団体となる等成果に現れた。また国際コンベンションも積極的に誘致し、2010年日本APECの開催を実現した。一方では都市計画道路整備の予算が減少し、事業速度の低下がみられた。 2009年、開港150周年・市制施行120周年を迎え、横浜市などが設立した財団法人横浜開港150周年協会が中心となって、様々な記念事業・祝祭イベントが行われた。同年4月28日から9月27日まで横浜みなとみらい21新港地区で開国博Y150が始まり(7月4日から9月27日まで、ヒルサイドエリア(横浜動物の森公園)でも開催)、4月19日には横浜動物の森公園で第20回全国「みどりの愛護」の集いが開催された。5月31日には横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)国立大ホールにおいて横浜開港150周年記念式典が挙行された。このほか、開港150周年を記念したプロジェクトとして、「象の鼻」地区を中心とした広場や緑地の整備、「開港150周年の森」づくり、横浜マリンタワーの再整備、横浜市立横浜サイエンスフロンティア高等学校の開校 などが実施された。また、同年7月に任期途中で中田が市長職を辞任した。第45回衆議院議員総選挙と同じ同年8月30日に行われた市長選挙で、東京日産自動車販売代表取締役社長の林文子が新たな市長に選ばれた。 2010年11月13日から14日には、パシフィコ横浜が2010年日本APECの参加国首脳会議の会場になった。2011年3月11日の東日本大震災では、ごく少数ではあるものの、地震動による建造物の全半壊、液状化現象による建物損壊がみられ、大規模な停電が発生し、少数の死傷者などの被害が発生した。また、福島第一原子力発電所事故により放出された放射性物質が市域にも降下したため、土壌の除染等の対応が採られた。 2013年5月には、保育所待機児童数がゼロとなったことを発表した。これは、「横浜方式」と呼ばれる一連の待機児童解消政策の成果とされる。 2020年、横浜市の中心部は企業集積が進み、横浜市単独で福岡・札幌・京都・神戸の都市雇用圏の合計人口を超えるなど、20世紀以前と比較して見違えるような発展を遂げている。 2020年10月、横浜市は、カジノを含む統合型リゾート施設(IR)の経済波及効果を公表。経済波及効果は年間7400億~9700億円、自治体への増収効果は年間860億~1千億円。雇用創出効果は年間91,000人~1190,00人。 2021年、横浜市は、22年ぶりに東京都からの移動が転入超過に転じた。東京23区からの転入者が目立つ。神奈川県内でも、横浜市よりも「東京23区に近い川崎市」からの転入者が転出者を上回った。横浜市の政策局に拠れば、「東京に近いエリアで流れが変わった」という。 2021年4月14日、横浜市の林文子市長は、受け入れ病床を「現在の約1.8倍にあたる925床に拡充した」と発表。感染が疑われる人向けに198床設置、回復期の患者向けに173床の病床を設置した。第4波に備えて554床を確保。さらに症状に応じて、新たに疑似症患者用病床と後方支援病床の設置を行ったという。また、感染症・医療調整本部の「Y-CERT(ワイサート)特別チーム」を設置。災害医療に通じた医師が中心となって転院先を調整する事によって、横浜市は、入院が必要な人を確実に入院することができるという。 2021年8月、横浜市は、住民票や本人確認ができる書類がなくても、希望する人にはワクチン接種が可能とした。横浜市は、接種券が届かない人を対象に、相談会を開始。相談に訪れた50代の男性は「こういう相談会があるのはすごく助かります。」「ワクチンが打てると安心感が全然違う」と話したという。
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戦後の発展
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これら各社を合併したことにより、戦後は新宿 - 石神井方面、中野 - 吉祥寺方面、荻窪 - 給田・新川方面、荻窪 - 中村橋方面のように、かつての会社の境界を越えて運行する路線が現れた。また、戦前は都心から郊外へ向かって東西に伸びる街道上を走る路線が主だったのに対し、中央線 - 西武新宿線 - 西武池袋線を結ぶ路線が相次いで開設されるようになり、南北交通の希薄な旧東京市西部に欠かせない交通手段へと発展していった。 1948年(昭和23年)には、いわゆる大東急の解体により、東京急行電鉄の持株が京王帝都電鉄(現:京王電鉄)へ譲渡され、東急グループを離脱した。しかし京王グループとはならず、引き続き東急専務の柏村毅が社長をつとめ主要株主となり、事実上東急の衛星企業として存続した。柏村は1898年(明治32年)に生まれ福島県会津の出身で、1927年(昭和2年)に池上電気鉄道に入社しバス部門に配属された。目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄)に吸収合併後も引き続きバス事業を担当し、戦後は東急の自動車部長ならびに専務取締役を歴任した。関東バスとは1940年(昭和15年)に小滝橋営業所長に就任して以来の縁で、この他に東急資本下にあった越後交通の社長や、東京自動車協会長、日本バス協会副会長に就任。東急のバス事業を支えた人物である。 「東急バス#大東急解体と東都乗合・関東乗合の東急グループ離脱」も参照 1964年(昭和39年)11月には、現在の関東バス株式会社に商号変更し、柏村の退任後は東急とも京王とも付かず、むしろ独立会社としての色合いを強めていった。 2016年3月期の関東バス株式会社有価証券報告書によれば、関東バスグループにおいて京王電鉄株式会社は「その他の関係会社」とされ、社外取締役として京王電鉄常務取締役(京王建設常務取締役、西東京バス代表取締役社長を歴任)の丸山荘が就任している。また吉祥寺駅発着の一般路線では、吉祥寺近辺に走行中の車内放送で井の頭線の利用を促す車内放送を流すなど協力関係にある。 戦後は他社との相互乗り入れ路線の開拓にも注力し、鷺ノ宮駅 - 新橋駅、石神井公園駅 - 東京駅など、都営バスと共同による都心直通路線が開通した。さらに国際興業バス、西武バス、京王バスといった周辺の民営事業者との共同運行路線も開設され、国際興業バスとの共同運行で池袋駅・赤羽駅、西武バスとの共同運行で大泉学園駅・保谷駅などにも路線を広げている。都営バスとの共同運行路線は道路状況の悪化などによりいずれも昭和40年代までに廃止されたが、民営各社との路線は引き続き運行されており、2002年(平成14年)には京王バスとの共同運行による松ノ木線を新たに開業した。1970年(昭和45年)には日本のバス事業者で初めて、路線バスのワンマン化率が100%となった。 1998年(平成10年)1月12日には、サービス向上とコスト削減を目的として、100%出資の子会社ケイビーバスを設立し、夜行高速路線を移管した。次いで一般路線である宿02(新宿西口 - 丸山営業所)を移管し、さらに丸山営業所の一般路線の管理委託化を進め、2004年(平成16年)に完了した。これにより、丸山の業務全般がケイビーバスに委譲された。その後、2009年(平成21年)11月1日より、ケイビーバスに移管されていた全ての高速・一般路線の運行が関東バスへ再度移管された。 2007年(平成19年)3月18日より、PASMOサービスを阿佐谷営業所の一部路線(阿佐谷・日大線)と武蔵野・青梅街道の全線で開始し、2007年(平成19年)7月1日までにケイビーバスを含む全営業所全路線で導入を完了した。全路線でPASMOの導入が完了したのは都営バス・川崎市交通局に次いで3事業者目、民営事業者では初となる。2010年7月31日をもって、バス共通カードの利用を終了した。 2014年9月20日から、武蔵野営業所・吉祥寺駅北口 - お台場(グランドニッコー東京 台場・大江戸温泉物語)を結ぶ路線の運行を開始した。土日祝日のみの運行で1日2往復、運賃は片道860円。担当は武蔵野営業所で、車両は深夜中距離バス用ワンロマ車の日産ディーゼル・スペースランナーRAが充当される。 2019年11月1日より、西武バス・京成バス・京成トランジットバスと共同運行で、吉祥寺駅北口 - 東京ディズニーリゾートを結ぶ高速バスの運行を開始した。 2014年には、猫をモデルにしたキャラクター「かんにゃん。」が誕生した。着ぐるみも制作され、自社イベントでは2014年9月20日の武蔵野営業所における臨海副都心行き近距離高速バス発車式でお披露目し、都営バス主催のイベントで他社イベントデビューを果たした。その後も都営バス主催のイベントではゲストキャラクターとして出演している。また2015年2月より、一般路線バス前面の行先表示器左側へ「かんにゃん。」ステッカー(都営バス「みんくる」・東急バス「ノッテちゃん」・小田急バス「きゅんた」ステッカーなどと同様のもの)を順次貼り付けている。
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