戦後の目黒営業所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 09:05 UTC 版)
「東急バス目黒営業所」の記事における「戦後の目黒営業所」の解説
戦後は、休止線の復旧を行うとともに、新規区間の開通が徐々に進められた。ちなみに昭和20年代には、東急バスの世田谷区内の営業所が淡島営業所1カ所しかなく、目黒営業所は東京都内の広い範囲にわたって路線を担当した。 目黒通りを走る自由ヶ丘線は、1948年より都営バスとの相互乗り入れを開始し、都心への直通運転を行うようになった。1950年(昭和25年)には等々力から深沢・駒沢・渋谷を経由して東京駅に向かう等々力線も開通する。また、祐天寺方面の路線は目黒駅 - 三軒茶屋間を結ぶ三軒茶屋線に、自由ヶ丘駅 - 駒沢ゴルフコース間の路線は渋谷駅直通のグランド線へと発展した。 詳細は「東急バス淡島営業所#グランド線」および「東急バス瀬田営業所#等々力線」を参照 目黒区の南部では、東急目蒲線武蔵小山駅周辺へと東西に結ぶ戦前の路線が廃止され、戦後新たに碑文谷線、洗足線、渋谷線のような各々の地域から国鉄のターミナルに連絡する路線が開通した。また、洗足線や不動線のように、目黒区内から渋谷駅へと連絡する路線ができたことも、戦後の変化の一つである。 一方で、江ノ島線や長野線といった長距離路線を担当し、貸切車も配備されるなど、東急バスのエース格の拠点として社内での地位を固めていった。 1956年(昭和31年)、瀬田営業所の発足に合わせて等々力線とグランド線が移管。同時に観光営業所が新設され、貸切専用車はそちらに移った。 詳細は「東急バス下馬営業所#沿革」を参照 1986年(昭和61年)、碑文谷線と清水線に都市新バスシステムが導入される(次節で詳述する)。
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