戦後の直通列車
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1950年(昭和25年)10月1日:東京駅 - 宇野駅間に夜行急行列車1往復が運転開始(東京駅 - 岡山駅間は「安芸」と併結運転)し、東京駅発着の四国連絡列車が初登場。また、大阪駅 - 宇野駅間にも夜行準急列車が設定された(広島行きと併結)が、こちらの方は宇高連絡船に客車の一部を積み込み、松山駅(愛媛県)と須崎駅(高知県)まで直通運転を行い、「海を行く汽車」として話題になった。 1951年(昭和26年)12月2日:東京駅 - 宇野駅間の夜行急行列車に「せと」と命名される。 1953年(昭和28年)11月11日:大阪駅 - 宇野駅間の夜行準急列車が独立運行となる。 1955年(昭和30年)5月11日:宇高連絡船で沈没事故が発生。これにより安全上の観点(客車内にいる乗客が、船が沈没する際に脱出することは困難である)から、乗客の乗った客車の航送が中止される。 1956年(昭和31年)11月19日:「せと」が「瀬戸」に変更して独立運行されるとともに、大阪駅 - 宇野駅間の夜行準急列車が普通列車に変更される。その代替として京都駅 - 宇野駅間に昼行の準急列車が広島行き準急列車と併結ながら設定される。 1958年(昭和33年)10月1日:京都駅 - 宇野駅間運行の準急列車が独立運行になる。 1959年(昭和34年)9月22日:京都駅発着の準急列車に「わしう」と命名される。 1960年(昭和35年)10月1日:「わしう」は「鷲羽」と漢字表記に変更。また、山陽本線の倉敷駅までと宇野線の電化が完成したため、「鷲羽」は153系を使用して客車から電車化され、さらに3往復に増発。運行区間も京都駅・大阪駅 - 宇野駅間になる。 1961年(昭和36年)10月1日 :サンロクトオのダイヤ改正により、次のように変更。東京駅 - 宇野駅間で特急「富士」が151系電車で1往復運転開始。宇野線に初めて特急列車が運転される。その間合い運用として、大阪駅 - 宇野駅間に特急「うずしお」を1往復設定。 山陰方面からの直通列車として岡山駅 - 出雲市駅 - 博多駅間運行の準急「しんじ」が宇野駅まで乗り入れ。 1962年(昭和37年)9月1日:宇野駅 - 鳥取駅間の準急「砂丘」が設定され、岡山駅 - 宇野駅間で「しんじ」と併結して乗り入れるようになる。 1964年(昭和39年)10月1日:東海道新幹線開業に伴い東海道本線の昼行特急列車を全廃することになったため、「富士」は廃止。「富士」の東海道新幹線と重複しない新大阪駅 - 宇野駅間に関しては「ゆうなぎ」と名称変更して存続。また「瀬戸」の補助列車として同区間に急行「さぬき」を設定する。 1965年(昭和40年)10月1日:宇野線列車の大増発が行われ、「鷲羽」は夜行1往復も設定され下り7本・上り8本になる。また宇野駅 - 出雲市駅間で準急「たまつくり」が運転開始。 1966年(昭和41年)3月5日:走行距離100km以上の準急列車を急行列車に格上げさせることになったため、「鷲羽」「砂丘」「しんじ」は急行列車となる。 1968年(昭和43年)10月1日:ヨン・サン・トオと呼ばれるダイヤ改正により、「うずしお」が「ゆうなぎ」を統合し、1往復増発して3往復、「瀬戸」が「さぬき」を統合して2往復、「しんじ」も「たまつくり」を統合して2往復、「鷲羽」は定期9往復・不定期2往復の11往復となる。
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