戦後の発展、筆ぺん誕生
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1956年(昭和31年)奈良市大宮町に大ホールを備えた鉄筋3階建ての新社屋が完成。新製品開発の第1弾として半練り状態の墨をチューブに入れた「墨のかおり」を発売する。しかし全国の校長先生からひどく叱られ売れなかった。1958年(昭和33年)には「墨滴」の名で書道用液体墨を業界で初めて売り出した。煤の比重をあげて浮かすことで沈殿を防ぎ書面が光らない工夫をしたが、またも叱られ80パーセントもの返品があった。しかし若い先生や塾の先生からはほめられて、これをきっかけに液体墨が主力商品となっていく。 1958年(昭和33年)10月にはサインペン(マーキングペン)を開発、「クレタケドリームペン」の名で発売した。これは良孝のアイデアで、彼はモリソン万年筆の工場に通って筆記具の製造を学び、東洋紡のエクスラン(アクリル繊維)を芯に使うことを考えついた。このサインペンは飛ぶように売れ外国からも注文が殺到する。これに自信を得た呉竹精昇堂は、1965年(昭和40年)4月に筆記具生産専門の別会社としてクレタケ工業株式会社を創設し、海外との貿易も開始した。1968年(昭和43年)にはクレタケ工業の本社ペン工場を奈良市南京終町7丁目492番地に移転、1971年(昭和46年)5月からは安弘が本社の社長に、良孝が本社専務とクレタケ工業の社長を兼務する体制となった。 こうしてサインペンの海外輸出が製墨と並ぶ経営の柱となっていたが、1971年(昭和46年)のドル・ショックによる円の切り上げは日本の輸出産業に大きな打撃を与え、呉竹精昇堂も貿易から一時撤退することとなり、それにかわる国内での新しい商品の開発が急務となる。そして墨作りの伝統とサインペンで培った筆記具製造技術を結びつけ、手軽に筆文字が書けるペン(筆ペン)の開発プロジェクトに会社の命運を賭けることとなった。 1973年(昭和48年)11月、2年の歳月をかけ筆のようなペン先にこだわって開発された「くれ竹筆ぺん」は、オイルショックで合成樹脂の原料調達に苦労するが、なんとか10万本を製作し関西圏でテスト販売した。画期的なペンの評価は高くもっと商品が欲しいという声が相次ぎ、翌1974年(昭和49年)には需要を411万本と予測し増産体制をとる。夏の暑中見舞いを当て込んだが予想に反して商品は売れず、夏の終わりには不良在庫になるかと心配された。しかし、年賀状商戦にテレビCMの全国展開など販売キャンペーンを繰り広げ12月初旬にはほぼ完売。その知名度が全国に浸透した。
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