戦後の移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 06:37 UTC 版)
敗戦による経済的混乱の中で大陸からの引揚者により経済規模に対して人口過剰状態になったため、あるいは外貨獲得のため、日本政府は再び海外移住を薦めようとした。ただ敗戦により日本は国際的に信用を失っていた。サンフランシスコ講和条約が締結された年(日本が主権を回復する前年)になる1951年(昭和26年)、ブラジルが近親者を呼び寄せる目的でのみ日本人の移住を許可した。翌1952年(昭和27年)南米を中心に移住が本格的に再開し、1956年(昭和31年)から1961年(昭和36年)にかけて日本政府はパラグアイ・ブラジル・アルゼンチンと移住協定を締結した。 この時期の広島県人の移住の例として、沼隈郡沼隈町(現福山市)の町ぐるみ移住が挙げられている。沼隈郡は古くから海外移住が行われていたところで、戦後の人口増に際し郡内に主要産業がなかったため海外移住を推進した。1955年(昭和30年)町村合併により沼隈町が誕生、初代町長に神原汽船の神原秀夫が就任、早々神原は移民船で南米を直接視察した結果、パラグアイのフラム(現ラパス)移住地への集団移住を推奨した。第一陣は1956年(昭和31年)6家族36人が出発し、その後町ぐるみでの移民が続いた。この沼隈町のケースは当時集団移民のモデルケースとして注目を集め、高知県では大正町(現四万十町)がこれを手本に集団移民を行って高知からの移民の主力となっていった。 ただ労働を目的とした海外移住は、1960年代以降高度経済成長に入り激減していった。明治期は全国1位の移民数を誇った広島であるが、戦後に限れば沖縄・熊本・福岡・長崎・北海道・福島に次ぐ全国7位に位置した。日本政府も量から質への海外移住に転換し1963年(昭和38年)組織再編し海外移住事業団を発足、これが国際協力事業団となり現在の国際協力機構(JICA)となった。
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