戦後の築城飛行場と富高飛行場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 06:54 UTC 版)
「築城海軍航空隊」の記事における「戦後の築城飛行場と富高飛行場」の解説
築城空の基地である築城飛行場と富高飛行場は、戦後は正反対の結末を迎えた。 築城飛行場は、米軍の駐留を終えると航空自衛隊の臨時基地となり、昭和30年1月より猛訓練を開始し、早くも同年5月にはジェット機パイロットの養成を達成した。昭和32年10月には正式に築城基地を開き、教育飛行団として機能を始めた。現在でも冬にブルーインパルスの展示飛行が見られる人気スポットである。また、稲童一号掩体壕や米軍艦載機による銃撃痕が見られる戦争遺跡の宝庫でもある。 一方の富高飛行場は、大蔵省によって民間に解放され、富島中学校や日知屋小学校などの公共機関や民間の農地に変貌した。宮崎県内に多数開かれた飛行場は、民間空港となった海軍宮崎飛行場と自衛隊基地となった陸軍新田原飛行場がわずかに残された。さらに日向市の発展にともない、痕跡は薄れつつある。それでも、協和病院前にコンクリート滑走路の痕跡が残るなど、わずかに面影は残っている。
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