戦後の競合メーカーとGEの参入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 05:09 UTC 版)
「エレクトロ・モーティブ・ディーゼル」の記事における「戦後の競合メーカーとGEの参入」の解説
1940年代末から1950年代初頭にかけて、アメリカの鉄道事業者は無煙化を推進した。そのほとんどはディーゼル化であったため、先述のALCOやボールドウイン、ライマ・ロコモティブ・ワークスなどの蒸気機関車メーカーや、大戦中に船舶を製造していたフェアバンクス・モースなどの新たなメーカーがディーゼル機関車製造に名乗りを上げた。多くの鉄道事業者は、まず数社から数ユニットずつ機関車を購入し、試用したのちに大量に発注したが、その多くはEMDに発注された。 ここで発注されたのはFシリーズであり、F3からF7までを貨物用として、旅客用のE7やE8を蒸気機関車との置き換え用としての発注であった。旅客列車をディーゼル化する経済効果は貨物列車のそれほどではないが、蒸気機関車の煙から解放された乗客は「動く広告」であった。 1949年、EMDはカナダのオンタリオ州ロンドンに新しく工場を開設した。GMの子会社であるゼネラルモーターズ・ディーゼル(GMD)が運営し、EMDの機関車のほかGMDが設計した車両も同様にカナダ国内や輸出向けに製造した。 同年、EMDは新たな革命的な機関車、GP7を発表した。いわゆるスイッチャータイプを引き延ばしたような形態をしており、ディーゼルエンジンや発電機はフードと呼ばれるカバーで覆われ、そのフードは容易に着脱することができた。この形態は現代においてフード・ユニットと呼ばれるもので、フード部分は車幅が狭く、車体の片側に寄せられた運転台からは両方向の視界が確保されるものである。そして、剛性を車体ではなくフレームが受け持つ。この形態はメンテナンス製にも優れていることもあり、EMDが予期していたよりも大きな成功を収めた。そうして、ごくわずかな例外を除いて、アメリカ国内で製造されるアメリカ国内向け機関車は1960年代からフードユニットタイプのみが製造されている。 EMDのライバルメーカーは、その製造ペースに追随することができなかった。まずライマが脱落し、ボールドウインやエンジンメーカーと合併してボールドウイン・ライマ・ハミルトン(BLH)が設立されたが、ボールドウインの率いる会社は長くは続かなかった。フェアバンクス・モースは革新的な機関車を製造したが販売的にふるわず、機関車製造から撤退した。ゼネラル・エレクトリックと組んだアルコだけが残った。アルコのディーゼル機関車の電気系統はGEが担当していた。 1950年代初頭に、GEはガスタービンエンジンを使った自前の機関車を発表し、機関車製造に参入した。1950年代末までにはディーゼル機関車も開発した。 そのころ、567型エンジンは改良が重ねられていた。初期の6気筒エンジンは600馬力(450kW)、V12型エンジンは900馬力(670kW)、V16型エンジン1350馬力(1010kW)であったが、1959年ころにはターボチャージャーを架装し、1963年10月から1966年1月までに製造された最終バージョンの567D3A型エンジンではV16で2500馬力(1860kW)を発揮するまでになっていた。
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