戦後の経営
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太平洋戦争の終戦から1年経った1946年9月、配電会社の法的根拠であった配電統制令が失効するとともに、同令から一部規定を引き継ぐ形で電気事業法が改正された。これを受けて各配電会社は商法に準拠した一般的な株式会社に移行し、改正電気事業法における一般供給事業者の一つとなった。中部配電でも同年10月1日付で定款を大幅改訂し、会社の位置付けを「配電統制令ニ依リ設立シ」「配電事業ノ統制ノ為配電事業ヲ営ム」(原始定款第1・2条)会社から単に電気供給事業その他を営む会社に改めた。ただし電力管理法や日本発送電については維持されており、電力国家管理という体制自体が消滅したわけではない。また日本発送電に対する政府補助金を通じて配電会社の経営を調整するという戦時下の方式に代わって、配電会社9社に日本発送電を加えた10社の損益を共同計算する本格的な「プール計算制」が始まったことから、戦後においても経営の自主性はみられなかった。 戦後は経営陣にも動きが生じた。1946年11月、自身への公職追放の適用を予見した社長海東要造が副社長鈴木鹿象とともに中部配電から退き、代わって取締役兼長野支店長の大岩復一郎が2代目社長、常務取締役兼営業部長の井上五郎が2代目副社長にそれぞれ就任したのである。以降、1951年(昭和26年)の会社解散まで大岩・井上体制が続くことになる。 経理面では、戦災復旧と設備拡充に要する費用の調達のため1947年(昭和22年)8月未払込株金の徴収を実施し、翌1948年(昭和23年)2月には戦後初の増資に踏み切って資本金を4億5000万円に引き上げた。しかし急速に進む戦後のインフレーションの影響もあり、増資だけで資金調達を賄うことができず、社債や借入金による資金調達が増加して自己資本比率の急減を引き起こした。業績面では、電気料金値上げの効果によって1947年上期に一旦復配を達成するが、さらなるインフレーションに打ち消されて同年下期から5期にわたり無配に逆戻りとなった。経営が安定化して年率10パーセントの配当が出せるまで業績が回復するのは、インフレーションの終息に朝鮮特需による増収が重なった1950年(昭和25年)上期のことである。 戦後の中部配電が戦中と異なる点の一つに労働組合の存在がある。「中部配電労働組合」(初代委員長栗山良夫)は1946年2月18日に結成。4月には日本発送電と各配電会社の労働組合の産業別連合体として「日本電気産業労働組合協議会」(電産協)が発足し、さらに翌1947年5月6日、各労働組合が単一組織に合同されて「日本電気産業労働組合」(電産)が成立した。電産はストライキを含む労使対決路線を進み、1946年12月にいわゆる「電産型賃金体系」を経営陣に認めさせるなどの戦果を挙げたものの、GHQが労働運動育成の方針を放棄するとその影響力は低下に向かった。
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戦後の経営
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資本金については、戦後1947年12月15日付で未払込金が徴収され、公称・払込資本金ともに1億2800万円とされた(以後全額払込)。戦後の増資は2回行われており、1948年5月19日付の増資で2億円、翌年2月26日付の増資で2億8000万円となっている。 戦後のインフレーションに際しては相次いで電気料金の値上げを実施した。まず1946年1月、他の配電会社と足並みをそろえて電灯料金を定額2倍・従量1.5倍、電力料金を2.5倍に引き上げた。翌1947年4月には2度目の値上げを実施し、電灯・電力料金ともに3倍に改定する。全国均一料金の原則があったが、この改定の際に500キロワット以上の大口電力契約に限り地域の電力原価に応じた料金差が認められた。その後全国均一の値上げとして、1947年7月1.4倍、1948年6月には約3倍の値上げを実施。1949年12月にも料金を改定し、電灯料金を定額2.1倍・従量1.3倍、電力料金を1.2倍に引き上げた。この値上げではGHQの方針により値上げ幅が圧縮され、さらに電灯料金・小口電力料金についても各自の原価を反映させた料金設定が認められた。この結果、北陸配電の電気料金は全国平均の半分以下という国内で最も低廉な料金となった。 インフレーションの影響で収入額も膨張し、1950年度の総収入は1945年度の62倍に達したが、1947年上期を除いて1949年上期まで純利益の計上もなく無配であった(復配は1950年上期から)。こうした戦後の収支も戦中と同様「プール計算制」に基づくものであった。戦後のプール計算制は、日本発送電に対する政府補給金が1945年度で打ち切られたため、配電会社9社に日本発送電を加えて収支を均衡させる本格的なものとなった。プール計算制により算出された日本発送電の卸売電力料金は、コスト面で不利な火力発電を抱える配電会社には有利に、低コストの水力発電で運営される北陸配電には不利(増額)に設定される傾向があった。しかしGHQの批判もあり、1948年下期以降プール計算制は縮小されていった。
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