電力管理法
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「電力国家統制法案」は、1938年(昭和13年)1月19日、第1次近衛内閣において、内閣調査局により、国家総動員法案などと共に提出されたが、法案成立過程においては、国策研究会が会内部に委員会を設置し、それまでの頼母木案の修正を図った。日中戦争が次第に激化するに連れ、現状では戦時体制の維持が図れないとする軍部の意向が強く反映されていた。 この「電力国家統制法案」は三つの法案からなる。「電力管理法案」・「日本発送電株式会社法案」そして「電力管理に伴う社債処理に関する法案」であったが、特に重要だったのが電力管理法案であった。これは電力会社・道府県・民間企業の全てを対象に、日本に存在する全ての電力施設を国家が接収・管理するという趣旨の法案である。そして接収した電力施設は「半官半民」である日本発送電株式会社によって管理し、一元運営を行うとするものであった。 この法案に対して、電力業界は当然のことながら猛反発した。特に東邦電力社長で「電力王」の異名を持つ松永安左エ門は、1933年の講演において軍部に追随する内務・逓信官僚を「人間のクズである」と痛烈に非難した。だがこうした電力業界の反発は当時絶大な権力を持った軍部によって抑圧され、「人間のクズ」発言をした松永は軍部から危険人物としてマークされるに至った。松永は企画院総裁であった鈴木貞一の助言によって隠退し、以後正面を切って法案に反対する勢力は居なくなった。一方議会では日本発送電の資金調達に対する財源や、低廉な電気料金の現実性を巡って意見が紛糾。原案は否決されて衆議院で修正案が提出されたものの、貴族院でさらに再修正されるなど法案の成立には紆余曲折があった。 被収用業者に新会社の株式または社債を交付するというのは、公用徴収の精神である完全賠償に反するという批判に対しては、政府は、「新会社の社債または株式は新会社の採算が確実であるのだから完全賠償である」と反論した。また「本法を成立させる理由は、そもそも電力はその性質上、公益的、独占的であり、わが国は天然資源に乏しく、石油、石炭のような燃料に恵まれず、ただ電源である天然水力には恵まれており、電力事業を民間経営に任せておくと採算上、水力の完全利用が望まれず、地方によって料金が不同であるから、本法によって、水力の完全利用を実現させ、料金を低廉ならしめ、農村電化の実現もあわせて企図するものである」と説明した。 最終的には衆議院と貴族院での両院協議会で調整されて、3月26日に成立。4月6日公布された(昭和13年法律第76号)。5月25日に第5条が、8月10日に第1・2条が、他は1939年3月18日施行された。 全7条。適用においては、自己の専用または一地方の需要に供する発送電で勅令が定めるもの(すなわち、最大電圧 40,000 V 以上において使用される送電線路を主体とする電力系統に属する設備、またはこれと密接な関係を有する設備による発送電以外の発送電。電力管理法施行令1条)は除外される。右により管理する発送電中、勅令で定めるものは、日本発送電株式会社として発送電を行なわせる。政府は規定によって日本発送電株式会社および政府が管理する発送電をなすものに対して一定の命令をだすことができ、後者に対する命令に違反した場合、2000円以下の罰金の規定がある。 法案成立後、政府によって逓信大臣の管理に属する電力管理準備局と諮問機関である電力審議会(昭和13年勅令369号による)が5月5日に設置され、発電・送電計画のほか議会で揉めに揉めた電気料金の設定などについて審議・決定が行われた。8月10日には電力評価審査委員会が設置され、全国の電気事業者から接収する電力施設の評価について審査を行い、これ以降全国の発電所、変電所、送電施設が段階的に接収されていった。なお、建前としては各事業者からの出資あるいは買収という形で管理を移管するということであったが、実際は国家総力戦の名の下、強制的に接収したのと同様であった。 施設の接収がほぼ終わると、国家管理を実施するための実務官庁が必要となった。そこで翌1939年(昭和14年)4月1日に逓信省電気局と電力管理準備局を統合し、逓信大臣の管理に属する電気庁を設置した。 こうしてすべての準備が整い、電気庁新設と同じ日、日本発送電が発足したが、日本発送電はその名の通り発電と送電を主体とする企業であり、各家庭や事業所への配電事業は従来通り民間に委ねていた。
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電力管理法
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1938年(昭和13年)4月、昭和に入って以来の懸案であった電力国家管理問題が決着、電力の国家管理をうたう「電力管理法」が公布されるに至った。これによって全国の電気事業者から火力発電所と主要送電線を現物出資させて翌1939年(昭和14年)4月に国策電力会社日本発送電株式会社を設立することが決定した。 その後出資すべき設備の範囲が確定し、33の事業者を対象に発送電設備の現物出資が指示されたが、この時点では神岡水電は対象に含まれなかった。しかしながら親会社の大同電力は全固定資産の4割に相当する設備の出資を命ぜられ、最終的にすべての資産・負債を日本発送電へと継承させる道を選んだため、1939年4月2日付で解散した。大同電力の解散により同社が保有する神岡水電の株式は日本発送電に継承され、電力の供給先も同社へと切り替わった。また電力管理法の影響により新規の水力開発が不可能になり、建設準備を進めていた東町発電所の権利が日本発送電へと移行したのは前述の通りである。 日本発送電の発足後、日中戦争が拡大する中で政府は電力国家管理の強化を指向し、水力発電所を含む主要電力設備を日本発送電に帰属させることを決定。勅令により電力管理法施行令を改正し、1941年(昭和16年)5月・同年8月の2度にわたり全国の電気事業者に対して設備の出資命令を発した。出資期日は1941年10月1日(=第1次出資)か翌1942年(昭和17年)4月1日(=第2次出資)のいずれかで、第1次出資には27、第2次出資には23の事業者がそれぞれ指定され、第1次・第2次合計で水力発電所292か所、火力発電所9か所、送電設備297路線、変電設備25か所に及ぶ電力設備の出資が命ぜられた。
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