日本発送電時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/24 18:07 UTC 版)
1938年(昭和13年)4月、電力の国家管理を目的とする電力管理法が公布され、国策会社日本発送電株式会社(日発)の設立が決定した。同年9月、同社設立準備事務所の開設とともに石川は事務所に入り、日発の設立準備に携わる。一方大同電力は日発へと資産負債一切を移譲し解散することを決定したので、翌1939年(昭和14年)3月30日付で石川は大同電力取締役を退任した。 1939年4月1日、電力管理法に基づき発送電事業を経営する日発が発足する。出力5,000キロワットを超える新規の水力発電所建設は日発が一手に引き受けることとなり、そのうち大阪・京都・三重・愛知・岐阜の5府県および長野県木曽川筋の開発を管轄する部署として中部水力建設事務所(後の中部水力事務所)を名古屋市に設置。管内では、大同電力から計画を引き継いだ兼山ダム(兼山発電所)・常盤ダム(常盤発電所)・三浦ダム(三浦貯水池)の建設がまず始められた。日発に移った石川はこの中部水力建設事務所の所長に就任。兼山ダム・三浦ダムの建設事務所の所長も兼任した。 日発の機構改革により1943年(昭和18年)12月、中部水力事務所は建設局名古屋出張所に改組された(1945年4月廃止)。石川は名古屋出張所長に就任する。翌1944年(昭和19年)5月理事に選出され、戦後日発が解散するまで役員の一人となった。さらに1946年(昭和21年)4月、東海支店長に就任した。
※この「日本発送電時代」の解説は、「石川栄次郎」の解説の一部です。
「日本発送電時代」を含む「石川栄次郎」の記事については、「石川栄次郎」の概要を参照ください。
- 日本発送電時代のページへのリンク