日本発送電総裁へ転ずる
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1936年に時の内閣が打ち出した電気事業を政府の管理下に置くという電力国家管理の方針は、日中戦争下で急速に具体化され、1938年(昭和13年)4月、電力管理法ほか3法の公布という形で法制化に至る。電力の国家管理を担う国策会社日本発送電株式会社(日発)は翌1939年(昭和14年)4月設立と決定され、1938年8月全国の主要事業者に対して政府から設備出資命令が発出された。大同電力も日本発送電への設備出資を命ぜられた事業者の一つである。 日本発送電設立の段階では、各事業者が同社への出資を命ぜられた設備は主要火力発電設備と主要送電線のみで水力発電設備や配電設備は含まれていなかったが、大同電力の場合その限られた範囲でも出資対象設備は全固定資産額の4割を占める規模であった。加えて、大同電力は電力供給の9割を他の電気事業者への卸売りに充てており、国家管理実施の上はその大部分が日発への卸売りとなって料金が低く抑えられる予定であったため、大同電力は営業の大部分を失う見通しとなり会社存続が困難となった。政府から残余資産の出資を推奨されたこともあり、大同電力では1938年12月事業および資産・負債一切の日発への移譲を決定。日発発足翌日にあたる1939年4月2日付で解散した。増田は解散日まで大同電力の代表取締役社長を務め、解散とともに清算人へと転じた。 日発設立の準備が進んでいた1930年代末には業界の長老とみなされていた増田は、電力国家管理案に当初反対していたものの、大同電力が全資産の日発への出資を決定した後は日発設立に協力する立場となった。こうした業界内での地位に加え、当時の内閣総理大臣平沼騏一郎や逓信大臣塩野季彦とも司法保護事業を通じて旧知の間柄であったため、日発の総裁職引き受けを依頼された。増田本人は大同電力の処理が決まったころに郷里に帰り隠居する旨を語っており、総裁就任を予想していなかったという。1939年4月1日、日発は創立総会を開催し発足、増田を初代総裁に任命した。副総裁には逓信次官から転じた小野猛が任ぜられ、その下の常務理事には元大同電力常務の藤波収・永松利熊らが名を連ねた。日本発送電の総裁は原則兼業禁止(日本発送電株式会社法第21条)であり、増田は総裁就任にあたって同年3月27日付で大同電力以外の会社役員すべてを辞任している(大同電力清算人就任については逓信大臣より特認)。 日発の総裁となった増田であるが、逓信省の外局として新設された電気庁の規制が強く、自由な活動ができなかったという。日発がうたう公約は電力の低廉豊富な供給というものであったが、実際には発足早々に近畿・中国地方での異常渇水に見舞われ水力発電が麻痺する事態に直面する。これを補給する火力発電も石炭不足で機能不全となり、送電の休止まで至ったため近畿地方を中心に工業地帯の生産活動に支障を来す結果となった。こうした事態の責任をとる形で増田は辞意を固め、1940年(昭和15年)11月初旬に村田省蔵逓信大臣へと辞意を伝え、翌1941年(昭和16年)1月9日辞表を提出する旨を正式に通告。1月15日付で辞表を提出、即日受理され、後任総裁には日本電力社長池尾芳蔵が任命された。 日発辞任後は一時小閑を得たが、台湾総督長谷川清に依頼され1941年11月20日付で台湾の電力会社台湾電力株式会社(台電)の社長に任命された。太平洋戦争開戦直後の12月、南日本製糖の常務として渡航して以来30年ぶりに台湾へ到着。専任の社長として同社を経営し、大甲渓での電源開発や台湾島内の電力統合などに携わった。台湾では台湾電力のほか台湾総督府評議員会など総督府関連の職や台湾商工経済会会頭など商工団体の役員も務めている。自身を推薦した長谷川の台湾総督離任を機に台湾電力からの退社を決め、1945年(昭和20年)1月23日付で社長を辞職、台湾から引き上げた。 戦後の1951年(昭和26年)1月14日、東京都渋谷区上智町の自邸にて死去。満82歳没。
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