電源周波数について
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北九州で先行して開業した九州電気軌道が小倉市に大門火力発電所を建設した際、電力の周波数は50ヘルツ(三相交流)が採用された。50ヘルツが選択された理由は明らかでないが、続いて九州水力電気が女子畑発電所を建設する際、当時九州では60ヘルツを採用する事業者が多かった(九州電灯鉄道や熊本の熊本電気など)にもかかわらず、北九州へ送電するという理由で九州電気軌道と同じ50ヘルツを選択した。当時の取締役大田黒重五郎によると、50ヘルツ採用は技術顧問の岸敬二郎の提言であるという。九州電気軌道・九州水力電気の両社が採用したことで北九州・筑豊地方には50ヘルツの電力圏が形成された。さらに九州水力電気が大分県での事業統合を進めたことから大分方面でも60ヘルツから50ヘルツへの転換が進行し、1929年(昭和4年)1月に50ヘルツ統一が完了した。ただし九州水力電気の全発電所が50ヘルツを採用したわけではなく、石井・南畑・洗玉の3発電所や筑後電気の発電所が60ヘルツ運転であったほか、女子畑・湯山・三芳・小国・杖立・黒淵の6発電所が50・60ヘルツ双方に対応していた。 こうして形成された50ヘルツ電力圏はその後長く残存し、電力運用面での障害となった。そのため周波数統一への機運が高まり、太平洋戦争終戦後の1947年(昭和22年)に北九州地区の周波数転換が部分的に施工され、次いで1949年(昭和24年)からは九州全体を対象に大規模な転換工事(第1期周波数統一工事)が始まった。九州水力電気に関連するところでは、駅館川・大分川・大野川各水系の発電所が1951年(昭和26年)に60ヘルツ運転へ転換された。 1951年の九州電力発足後には「第2期周波数統一工事」が始まり、1960年(昭和35年)をもって九州の自家用設備を除く周波数統一が完了した。この間、大分川水系の発電所(残部)と女子畑発電所をはじめとする筑後川水系の発電所が工事対象となり、1954年(昭和29年)から1960年にかけて順次60ヘルツ運転へ転換された。なお鯰田・宇ノ島両火力発電所は需要家側の転換進捗にあわせて60ヘルツ化されることなく廃止されている。
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電源周波数について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 13:55 UTC 版)
1909年から翌年にかけて大阪電灯・小倉電灯・八幡電灯の3社を統合した際に引き継いだ門司・小倉・八幡の各発電所は、発生電力の周波数がそれぞれ異なっていた(門司は125ヘルツ、小倉は60または100ヘルツ、八幡は不詳)。1911年5月に発電を集約すべく大門発電所が建設された際、周波数は50ヘルツ(三相交流)が採用された。50ヘルツが選択された理由は明らかでない。その後九州水力電気が女子畑発電所を建設する際、当時九州では60ヘルツを採用する事業者が多かった(福岡市の九州電灯鉄道、熊本の熊本電気など)にもかかわらず、北九州に送電するという理由で同社は九州電気軌道と同じ50ヘルツを選択した。このことで北九州・筑豊地方には50ヘルツの電力圏が形成された。 50ヘルツ電力圏はその後長く残存しており、九州の電力圏の過半を占める60ヘルツ圏への統一(周波数の切り替え)は太平洋戦争終戦後まで実現しなかった。九州電気軌道に関連するところでは、小倉発電所2号機が日本発送電時代の1951年3月に60ヘルツ化転換工事が竣工、九州電力発足後の1955年に小倉発電所1号機も続いて転換工事が竣工した。大門発電所は60ヘルツ転換される前に廃止されている。
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