電源増強の苦心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:03 UTC 版)
「静岡市営電気供給事業」の記事における「電源増強の苦心」の解説
上記のように供給力不足に苦しんだ静岡市では、対策として市営発電所の建設を構想した。場所は市の北西、安倍郡大川村を流れる安倍川水系藁科川であり、水利権取得まで準備を進めた。一方、四日市製紙でも第二期工事として大久保発電所の放水路を活用する川合発電所の新設を1918年(大正7年)6月に出願した。 翌1919年(大正8年)6月24日、静岡市会にて四日市製紙との供給契約の件と藁科川水利権譲渡の件などが可決された。前者は四日市製紙川合発電所の落成と同時に市営供給事業の受電高を昼夜とも2,000 kWへと引き上げるという契約、後者は藁科川水利権と発電所工事材料の一切、11万3860円相当を駿遠電気(後の静岡電気鉄道)へと売却するという議案である。これらの決定の背景には、藁科川の市営発電所が大戦末期の物価・賃金価格高騰のため着工に至らない状態にあり、四日市製紙からの受電増加にあわせて水利権を手放すこととなったという事情があった。市会での審議によると、藁科川を再調査した結果、工費が当初予定2倍以上必要であるにもかかわらず発電所出力が著しく少なくなることが判明していたという。 1920年(大正9年)2月、芝川の四日市製紙川合発電所が運転を開始した。同発電所は出力3,080 kWで、芝富村長貫(現・富士宮市長貫)に位置する。運転開始を機に市営供給事業の受電高は昼夜とも2,000 kWに増強され、供給力不足は一応解消された。また藁科川の発電所計画を市から引き継いだ駿遠電気は同年6月に大川発電所(出力250 kW)を完成させ、これを電源に8月から静岡清水線の電車運転と発電所地元での配電を開始した。 1922年(大正11年)11月、東京電灯によって静岡県東部を流れる狩野川水系深良川(深良用水により芦ノ湖より引水)に深良川第一・深良川第二両発電所が完成、翌年には深良川第三発電所も完成をみた。深良川の発電所には神奈川県側のみならず静岡県側にも送電線が伸ばされており、三島経由で東京電灯静岡変電所(豊田村大字南安東に所在)まで送電された。これらの深良川発電所建設にあたり、静岡県知事の斡旋によって静岡市では昼夜2,000 kWの受電を1920年に予約し、1922年には受電設備も整えたが、翌1923年(大正12年)6月になって供給余力がないと通達されて受電は実現しなかった。なお深良川の発電事業は1923年に芦之湖水力電気へ売却され、直後に同社を合併したことで東洋モスリンに引き継がれたが、1925年(大正14年)に東京電灯の手に戻されている。
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