電力界入り
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武田賢治は慶応元年9月19日(新暦:1865年11月7日)、荒川杏造の次男として生まれた。父は尾張国知多郡成岩村(現・愛知県半田市)の医師であったが、賢治が7歳のときに死去する。そのため苦学して医術開業試験に合格した。 1890年(明治23年)、武田うらの入夫という形で武田家を相続した。武田家は愛知県宝飯郡森村(後の国府町、現・豊川市)の家。先々代にあたる武田準平(1839 - 1882年)は実業家阿部泰蔵の実兄で、愛知県会議長を務め自由党で活動した人物。伊東玄朴に学んだ医師でもあった。武田家を継いだ賢治は医業に専念し、宝飯郡医師会長も務めている。日清戦争時には応召軍医として従軍した。その後医業の傍らで政界進出を試み、1903年(明治36年)9月、立憲政友会から愛知県会議員に初当選した。在任期間は1907年(明治40年)9月までの4年である。 1908年(明治41年)7月、福澤桃介・徳倉六兵衛らとともに豊橋市の電力会社豊橋電気にて取締役に選出された。武田にとってこれが実業界入りの第一歩であった。この豊橋電気は、1894年(明治27年)に地元の三浦碧水らによって設立された電力会社である。元々地元資本の会社であったが、会社規模の拡大に伴い地元資産家以外にも出資を求めるようになったため武田らが参入したのであった。 豊橋電気に入ったことで各地の電気事業に関わる福澤桃介との接点ができた武田は、その後福澤の関係する他の会社の役員にも就任した。まず1912年(大正元年)12月、浜田電気の取締役に就任する。同社は前年5月に福澤を社長(1916年まで在任)として設立された島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)所在の電力会社である。次いで1913年(大正2年)6月、栃木県塩谷郡氏家町(現・さくら市)に野州電気が設立されると、その代表取締役に就任した(福澤は監査役)。 豊橋電気において、福澤は1909年から1912年にかけて社長を務め、さらに創業者三浦碧水の死後1918年(大正7年)に専務から昇格して社長に復帰した。翌年初頭時点での役員一覧では福澤社長の下で武田が専務取締役を務める。福澤は当時同じ愛知県下の名古屋電灯社長も兼ね、同社の経営に注力していたことから、豊橋電気の実質的経営については専務の武田と支配人兼技師長今西卓に任されたという。 豊橋電気時代の1915年(大正4年)9月、立憲同志会(のち憲政会)から愛知県会議員に再当選した。在任期間は1919年(大正8年)9月までの4年間である。
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電力界入り
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桜木亮三は、1880年(明治13年)2月6日、佐賀県士族吉岡卯八の三男として生まれた。1897年(明治30年)より絶家の桜木家を再興して桜木姓を称する。1901年(明治34年)7月東京の第一高等学校第一部法科(英法)を卒業、次いで1906年(明治39年)7月東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 大学卒業後は大蔵省に入るがまもなく退職、九州に戻り長崎の十八銀行に入社した。次いで1914年(大正3年)、同地の電力会社長崎電灯へと転じ支配人となった。この長崎電灯は元々十八銀行の姉妹会社であったが、経営難の中で1912年(明治45年)7月松島炭鉱を経営する古賀春一が社長となり、十八銀行に代わって経営権を握っていた。桜木は古賀に招かれ長崎電灯へと転籍、社業改革にあたった。1914年7月にガス会社九州瓦斯との合併で長崎電気瓦斯となった後も引き続き同社支配人に在任している。 1916年(大正5年)5月、長崎電気瓦斯は急速に勢力を拡大する福岡の電力会社九州電灯鉄道に合併された。桜木は合併とともに九州電灯鉄道支配人に就任、1920年(大正9年)12月には取締役に推され取締役兼支配人となった。当時の経営幹部は社長伊丹弥太郎、常務松永安左エ門・田中徳次郎という陣容である。
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