実業界入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 02:03 UTC 版)
福岡日日新聞では、通信社の株式会社日本電報通信社(現・電通、1906年12月株式会社として発足)の大株主となった関係から、山口を大阪支社長として同社に転籍させると決定した。しかし山口の就任を電通創業者の光永星郎は阻止したという。一方で福岡財界の一部は山口の転出を惜しみ、山口を福岡に留まらせようと画策し、福岡の電力会社博多電灯(後の九州電灯鉄道)の株式を買収して社長に据えた。1907年(明治40年)7月のことである。 その後1908年(明治41年)12月に北九州の電鉄会社九州電気軌道の設立に際し取締役に就任。翌1909年(明治42年)には8月に福博電気軌道の設立とともに取締役に就任、9月には博多湾鉄道(後の博多湾鉄道汽船)の取締役にもなり、福岡市とその周辺の鉄道会社にも相次いでかかわった。これら3社は西日本鉄道(西鉄)の前身にあたる。 1911年(明治44年)11月、社長を務める博多電灯は福博電気軌道と合併して博多電灯軌道となった。さらに翌1912年(明治45年)6月には佐賀県の九州電気と合併して九州電灯鉄道へと発展したが(後の東邦電力)、山口はその社長職を佐賀財界の伊丹弥太郎に譲り、松永安左エ門・田中徳次郎とともに常務取締役に就任した。松永によると、社長は伊丹であるが実際のところは山口・松永・田中の常務の3人で経営一切を取り仕切っていたという。その後1914年(大正3年)12月に辞任するまで九州電灯鉄道常務を務めた。 実業界ではその後、先述の日本電報通信社の常務取締役を1915年(大正4年)7月から1918年(大正7年)9月まで務めている。
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