会議に至る背景とは? わかりやすく解説

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会議に至る背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 04:52 UTC 版)

大阪会議」の記事における「会議に至る背景」の解説

征韓論をめぐる明治6年1873年10月政変政府首脳分裂した結果征韓派の参議西郷隆盛江藤新平板垣退助らが下野し政府去った残った要人は、急速かつ無秩序に行われたこれまでの制度改革整理すべく大久保中心に内務省設置大久保中心に岩倉具視大隈重信伊藤博文片岡健吉らが政府再編を行うが、直後台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、政府内で薩長閥のトップ大久保だけになってしまう。 政府対する不満は、全国顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱鹿児島県においては私学校党による県政壟断招き、また板垣らは愛国公党結成して自由民権運動始動するなど、不穏な政情が世を覆っていた。そのような状況下、赤坂喰違坂で岩倉不平士族武市熊吉らに襲撃される事件喰違の変)が発生した。さらに左大臣就任した島津久光が、政府改革反対保守的な建白書提出したことに始まる紛議によって、政局混迷した。政治改革のための財政的基盤となる地租改正遅々として進まず次第大久保焦り始めていた。 当時官界去り大阪実業界入っていた井上馨は、この情勢憂い混迷する政局打開するには大久保木戸板垣による連携が必要であるとの認識抱き盟友伊藤博文とともに仲介役を試みる。木戸との連携必要性感じていた大久保もこれに応じ伊藤木戸との会談斡旋依頼、自ら大阪へ向かう。明治7年1874年12月井上は、山口県帰っていた木戸大阪呼び寄せ、また自由民権運動の士小室信夫古沢滋らに依頼して東京にいた板垣招いた。こうして大阪府第1大区(現・大阪市中央区北浜1丁目の島新地に集った大久保木戸板垣三者による協議が、井上伊藤周旋役として行われることとなった。 またこの背景には、井上同じよう官界去って実業界入りしていた五代友厚斡旋があり、五代邸は大阪会議準備会談として使われ大久保伊藤らが何度も往復したという。大久保下準備のためにおよそ一か月間もの間五代邸(現在の日本銀行大阪支店辺り建っていた、旧島原藩蔵屋敷跡地)に入り年末年始五代邸で過ごした他方木戸来阪すると五代邸に大久保訪ね、碁を囲んだ。このことからも、両者五代邸で囲碁楽しんだことがわかる。五代大久保のためには労を惜しまなかったため、大久保から五代宛てた松陰(友厚の号)君へは近々勅丈にても御差立御模様に候間為御心得申上置候」との手紙は、五代単なるお膳立・斡旋だけでなく、会議の内容に相当立ち入った積極的な役割果たしたことを想像させる大久保木戸板垣三者思惑は全く別のものであったが、このように大久保相談役そして、板垣退助との仲介役としてこの不一致穏便にまとめた五代友厚らによって、大阪会議成功へと導いた

※この「会議に至る背景」の解説は、「大阪会議」の解説の一部です。
「会議に至る背景」を含む「大阪会議」の記事については、「大阪会議」の概要を参照ください。

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