実権の掌握
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1977年7月の第10期3中全会において、党副主席、国務院常務副総理、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰した。翌8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。鄧小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手すると共に科学技術と教育の再建に取り組み、同年に全国普通高等学校招生入学考試を復活させる。 1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、当時は副総理だったが事実上の中国の首脳として初めて訪日して福田赳夫首相らに歓待され、中国の指導者としては初めて昭和天皇と会見した。 1976年2月のロッキード事件の渦中にあった田中角栄の私邸を田中の日中国交正常化の功績を称えるべく訪れた他、日本社会党・公明党・民社党・新自由クラブ・社会民主連合・日本共産党といった野党6党の代表と会談して自らを不老不死の霊薬を求めて来日した徐福に擬えた。千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所を訪れて上海の宝山製鉄所への協力を仰ぎ、東海道新幹線に乗った際はその速さに驚嘆し、パナソニックでは工場建設を呼びかけ、日産自動車の整然と作業する産業用ロボットに感銘を受けるなど先進技術施設の視察を精力的に行い、京都・奈良にも訪れた。この日本訪問で鄧小平が目の当たりにした日本の経済力、特に科学技術での躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。 同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後の12月18日から22日にかけて開催された第11期3中全会において文化大革命が否定されると共に、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線の決定と歴史的な政策転換が図られ、この時に最高指導者となった。また、1976年4月の第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し、事実上党の実権を掌握したとされる。この会議の決議内容が発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話が残っている。 1979年1月1日にアメリカ合衆国との国交が正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけてアメリカを訪問した。首都のワシントンD.C.でアメリカのジミー・カーター大統領との会談に臨んだ後、ヒューストン・シアトル・アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケット・航空機・自動車・通信技術産業を視察した。前年の日本訪問とこのアメリカ訪問で科学技術において立ち遅れた中国という現実を直視した鄧は、改革開放の強力な推進を決意した。同年7月に党中央は香港に隣接する広東省の深圳をはじめとする経済特区を設置した。この外資導入による輸出志向型工業化政策はその後極めて大きな成果を収めた。この彼のプラグマティズムは「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(中: 不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)という「白猫黒猫論」に表れている。しかし、この改革開放はかつての中体西用のように政治的には体制の改革を避け、経済的にはかつての広東システムのように一部地域に限った管理貿易で全面的なものではなく、その二面性は「窓を開けば、新鮮な空気とともにハエも入ってくる」(中: 打開窗戶,新鮮空氣和蒼蠅就會一起進來)という発言にも表れている。 1979年2月、ベトナム戦争時代の同盟国であり、毛沢東及びホー・チ・ミン死後にソ越友好協力条約を締結してソ連に接近したベトナムが、中国に友好的な民主カンプチアのポル・ポト政権をベトナム・カンボジア戦争で打倒したことに対して懲罰として中越戦争を開始した。この戦争は中国人民解放軍の撤退で終わったものの、1950年6月の朝鮮戦争以来の中国の大規模な軍事作戦であり、この戦争を主導したことは中国国内の権力闘争で鄧小平に有利に働いたとも評されている。毛沢東の後継者である華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義的毛沢東崇拝路線を掲げていたが、これを批判する論文が、鄧小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報・解放軍報・新華社通信に掲載されたのを機に、国家的な論争に発展。北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれた。その多くは華国鋒体制を批判し、鄧小平を支持するものであった。華国鋒は追いつめられ、前述の1978年12月の党中央工作会議において毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失っていった。最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会において党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席に就任し、鄧小平が党中央軍事委員会主席に就任した。前年の1980年9月に鄧小平の信頼が厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここに鄧小平体制が確立した。 1980年4月、鄧小平体制はソ連との軍事同盟である中ソ友好同盟相互援助条約を破棄させ、1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してモスクワオリンピックをボイコットし、アフガニスタンでソビエト連邦軍と戦っていたムジャヒディンへの支援も行い、アメリカの1984年ロサンゼルスオリンピックへの参加を決定し、カーターの後任で保守・右派のロナルド・レーガン大統領とも友好関係を築いてアメリカと中国の軍事協力などを推し進めた。カンボジアから再び中国に亡命してきたノロドム・シハヌークを保護し、鄧小平はシハヌークにクメール・ルージュと2度目の共同戦線を組むことを迫って1981年9月4日にポル・ポトとシアヌーク及び親米右派のソン・サンの反ベトナム3派による民主カンプチア連合政府(CGDK)(英語版)を創設させてカンボジア内戦を長期化させた。この内戦により、民主カンプチア連合政府を支援したASEAN諸国と中国を関係改善させることに鄧小平は成功した。 1984年3月、中国を訪問した当時の中曽根康弘首相は鄧小平ら中国指導部と会談して第二次円借款の実施し、中日友好病院・日中青年交流センター設置などで一致し、鄧小平は経済協力の拡大を呼びかけ、沿海部の経済特区指定も重なり、これ以降日本の対中直接投資は本格化する。一方で当時の胡耀邦総書記と比較して鄧小平は靖国神社問題などで日本に批判的であり、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して愛国主義教育を推進するよう指示を出して南京大虐殺紀念館を作らせた。 1984年12月、鄧小平とモスクワ中山大学の同窓生だった中華民国(台湾)の蔣経国に提案していた「一国二制度」構想のもと、イギリスの植民地であった香港の返還に関する合意文書に、マーガレット・サッチャー首相(当時)と共に調印している。当時イギリス政府とともに香港社会に影響力を持っていた黒社会(三合会)は中国が本土と同様に取り締まり強化や中国の刑法の厳格な死刑適用を行う可能性を危惧したが、鄧小平は「黒社会も真っ黒ではない、愛国者も多い」(黑社會並不都黑,愛國的還是很多)と香港の暗黒街を容認する姿勢を述べて中華人民共和国公安部もこれに追従した。蔣経国とはシンガポール首相のリー・クアンユーや香港の商人で密使の沈誠らを通じて交渉を行い、1985年7月には香港などを介した大陸との間接貿易を台湾に事実上解禁させることに成功し、1987年11月には三親等以内の大陸親族への訪問の容認を引き出した。 1988年に、西沙諸島に2,600メートル級の本格的な滑走路を有する空港を完成させ、南シナ海支配の戦略拠点とした上で、3月にベトナムとの間で領有権を争いスプラトリー諸島海戦(南沙諸島海戦)で中国海軍が勝利した。南沙諸島はベトナムを植民地としたフランス領から日本領を経て領有権を明確にせず、他に台湾、フィリピン、マレーシア、ブルネイが領有権を主張する海域である。
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