実権の掌握とは? わかりやすく解説

実権の掌握

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 17:35 UTC 版)

鄧小平」の記事における「実権の掌握」の解説

1977年7月第10期3中全会において、党副主席国務院常務副総理中央軍事委員会副主席人民解放軍総参謀長正式に復帰した。翌8月開催され第11回党大会において、文化大革命終了宣言される鄧小平文革混乱した人民解放軍整理着手すると共に科学技術教育再建取り組み同年全国普通高等学校招生入学考試復活させる1978年10月日中平和友好条約批准書交換のため、当時副総理だったが事実上中国首脳として初め訪日し福田赳夫首相らに歓待され中国指導者としては初め昭和天皇会見した1976年2月ロッキード事件渦中にあった田中角栄私邸田中日中国交正常化功績称えるべく訪れた他、日本社会党公明党民社党新自由クラブ社会民主連合日本共産党といった野党6党の代表と会談して自らを不老不死霊薬求めて来日した徐福擬えた。千葉県君津市新日鉄君津製鉄所訪れて上海宝山製鉄所への協力仰ぎ東海道新幹線乗った際はその速さ驚嘆しパナソニックでは工場建設呼びかけ日産自動車整然と作業する産業用ロボット感銘を受けるなど先進技術施設視察精力的に行い京都・奈良にも訪れた。この日本訪問鄧小平目の当たりにした日本の経済力、特に科学技術での躍進振りは、後の改革開放政策動機になったとされる同年11月10日から12月15日にかけて開かれた党中央工作会議と、その直後12月18日から22日にかけて開催され第11期3中全会において文化大革命否定されると共に、「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線決定歴史的な政策転換図られ、この時に最高指導者となったまた、1976年4月第一次天安門事件再評価が行われ、周恩来追悼デモ四人組反対する「偉大な革命的大衆運動」とされた。鄧小平はこの会議中心的なリーダーシップ発揮し事実上党の実権掌握したとされる。この会議決議内容発表されたときは全国的な歓喜の渦に包まれたという逸話残っている。 1979年1月1日アメリカ合衆国との国交正式に樹立されると、鄧小平は同28日から2月5日にかけてアメリカ訪問した首都ワシントンD.C.アメリカジミー・カーター大統領との会談臨んだ後、ヒューストン・シアトル・アトランタなどの工業地帯訪れロケット・航空機自動車通信技術産業視察した前年日本訪問とこのアメリカ訪問科学技術において立ち遅れ中国という現実直視した鄧は、改革開放強力な推進決意した同年7月党中央香港隣接する広東省深圳はじめとする経済特区設置した。この外資導入による輸出志向型工業化政策その後極めて大きな成果収めた。この彼のプラグマティズムは「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良いである」(中: 不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好)という「白猫黒猫論」に表れている。しかし、この改革開放はかつての中体西用のように政治的に体制改革避け経済的にはかつての広東システムのように一部地域限った管理貿易全面的なものではなく、その二面性は「窓を開けば新鮮な空気とともにハエ入ってくる」(中: 打開窗戶,新鮮空氣蒼蠅就會一起進來)という発言にも表れている。 1979年2月ベトナム戦争時代同盟国であり、毛沢東及びホー・チ・ミン死後ソ越友好協力条約締結してソ連接近したベトナムが、中国友好的な民主カンプチアポル・ポト政権ベトナム・カンボジア戦争打倒したことに対して懲罰として中越戦争開始した。この戦争中国人民解放軍撤退終わったものの、1950年6月朝鮮戦争以来中国大規模な軍事作戦であり、この戦争主導したことは中国国内権力闘争鄧小平有利に働いたとも評されている。毛沢東後継者である華国鋒は「二つのすべて」と呼ばれる教条主義毛沢東崇拝路線掲げていたが、これを批判する論文が、鄧小平の最も信頼する部下である胡耀邦らにより人民日報解放軍報・新華社通信掲載されたのを機に国家的な論争発展北京には「民主壁」よばれる掲示板現れ人民による自由な発言書き込まれた。その多く華国鋒体制批判し鄧小平支持するものであった華国鋒追いつめられ前述1978年12月党中央工作会議において毛沢東路線自己批判せざるを得なくなり党内における指導力失っていった。最終的に華国鋒1981年6月第11期6中全会において党中央委員会主席中央軍事委員会主席解任され胡耀邦党主席就任し鄧小平党中央軍事委員会主席に就任した前年1980年9月鄧小平信頼が厚い趙紫陽国務院総理首相)に就任しており、ここに鄧小平体制確立した1980年4月鄧小平体制ソ連との軍事同盟である中ソ友好同盟相互援助条約破棄させ、1979年12月ソ連のアフガニスタン侵攻抗議してモスクワオリンピックボイコットしアフガニスタンソビエト連邦軍戦っていたムジャヒディンへの支援行いアメリカ1984年ロサンゼルスオリンピックへの参加決定しカーター後任保守右派ロナルド・レーガン大統領とも友好関係築いてアメリカと中国軍事協力などを推し進めたカンボジアから再び中国亡命してきたノロドム・シハヌーク保護し鄧小平シハヌーククメール・ルージュ2度目共同戦線を組むことを迫って1981年9月4日ポル・ポトシアヌーク及び親米右派ソン・サンの反ベトナム3派による民主カンプチア連合政府(CGDK)(英語版)を創設させてカンボジア内戦長期化させた。この内戦により、民主カンプチア連合政府支援したASEAN諸国中国を関係改善させることに鄧小平成功した1984年3月中国訪問した当時中曽根康弘首相鄧小平中国指導部会談し第二次円借款実施し中日友好病院日中青年交流センター設置などで一致し鄧小平経済協力拡大呼びかけ沿海部の経済特区指定重なり、これ以降日本対中直接投資本格化する。一方で当時胡耀邦総書記比較して鄧小平靖国神社問題などで日本批判的であり、全国日本中国侵略記念館・記念碑建立して愛国主義教育推進するよう指示出して南京大虐殺紀念館を作らせた。 1984年12月鄧小平モスクワ中山大学同窓生だった中華民国台湾)の蔣経国提案していた「一国二制度構想のもと、イギリスの植民地であった香港返還に関する合意文書に、マーガレット・サッチャー首相当時と共に調印している。当時イギリス政府とともに香港社会影響力持っていた黒社会三合会)は中国本土同様に取り締まり強化中国刑法厳格な死刑適用を行う可能性危惧したが、鄧小平は「黒社会真っ黒ではない、愛国者も多い」(黑社會並不都黑,愛國的還是很多)と香港暗黒街容認する姿勢述べて中華人民共和国公安部もこれに追従した蔣経国とはシンガポール首相リー・クアンユー香港商人密使の沈誠らを通じて交渉行い1985年7月には香港など介した大陸との間接貿易台湾事実上解禁させることに成功し1987年11月には三親等以内大陸親族への訪問容認引き出した1988年に、西沙諸島に2,600メートル級の本格的な滑走路有する空港完成させ、南シナ海支配戦略拠点とした上で3月ベトナムとの間で領有権争いスプラトリー諸島海戦南沙諸島海戦)で中国海軍勝利した南沙諸島ベトナム植民地としたフランス領から日本領を経て領有権明確にせず、他に台湾フィリピンマレーシアブルネイ領有権主張する海域である。

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「実権の掌握」を含む「鄧小平」の記事については、「鄧小平」の概要を参照ください。

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