実権無き上皇
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崇徳院は在位中から頻繁に歌会を催していたが、太上天皇になってからは和歌の世界に没頭し、『久安百首』を作成し『詞花和歌集』を撰集した。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開した。法皇も表向きは崇徳院に対して鷹揚な態度で接し、崇徳院の第一皇子である重仁親王を美福門院の養子に迎えた。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁親王への皇位継承も可能となった。また、近衛天皇の朝覲行幸に際して、法皇は美福門院とともに上皇を臨席させ(『本朝世紀』)、上皇の后である聖子を母親として天皇と同居させるなど崇徳院を依然として天皇の父母もしくはそれに準じる存在と位置づけており、近衛天皇が健在だったこの時期においては、崇徳院は鳥羽院政を支える存在とみなされ、両者の対立はまだ深刻な状況にはなかったとする説もある。 久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれた。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。鳥羽法皇や美福門院は、崇徳上皇に近い藤原頼長の呪詛により近衛天皇が死んだと信じていたといい(『台記』)、背景には崇徳院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、兵衛佐局・重仁親王の件で崇徳上皇を良く思わない藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測される。また、守仁親王が直ちに即位した場合、その成人前に鳥羽法皇が崩御した場合には唯一の院になる崇徳上皇が治天の君となれる可能性があったが、父親でかつ成人している雅仁親王が即位したことでその可能性も否定された。これにより崇徳院政の望みは粉々に打ち砕かれた。
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