実権無き上皇とは? わかりやすく解説

実権無き上皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 12:57 UTC 版)

崇徳天皇」の記事における「実権無き上皇」の解説

崇徳院在位中から頻繁に歌会催していたが、太上天皇になってからは和歌世界没頭し、『久安百首』を作成し詞花和歌集』を撰集した。鳥羽法皇和歌に熱心でなかったことから、当時歌壇崇徳院中心に展開した法皇表向き崇徳院に対して鷹揚態度接し崇徳院第一皇子である重仁親王美福門院養子迎えた。これにより近衛天皇継嗣のないまま崩御し場合には、重仁親王への皇位継承も可能となったまた、近衛天皇朝覲行幸に際して法皇美福門院とともに上皇臨席させ(『本朝世紀』)、上皇の后である聖子母親として天皇同居させるなど崇徳院依然として天皇父母もしくはそれに準じる存在位置づけており、近衛天皇健在だったこの時期においては崇徳院鳥羽院政を支え存在みなされ両者の対立はまだ深刻な状況にはなかったとする説もある。 久寿2年1155年7月23日病弱だった近衛天皇17歳崩御し後継天皇決め王者議定開かれた候補としては重仁親王最有力だったが、美福門院もう一人養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまで中継ぎとして、その父の雅仁親王立太子しないまま29歳即位することになった後白河天皇)。鳥羽法皇美福門院は、崇徳上皇に近い藤原頼長呪詛により近衛天皇死んだ信じていたといい(『台記』)、背景には崇徳院政によって自身掣肘されることを危惧する美福門院、父・藤原忠実と弟・頼長との対立苦境に陥り、兵衛佐局重仁親王の件で崇徳上皇良く思わない藤原忠通雅仁親王乳母の夫で権力の掌握目指す信西らの策謀があったと推測されるまた、守仁親王直ち即位した場合、その成人前鳥羽法皇崩御し場合には唯一の院になる崇徳上皇治天の君となれる可能性があったが、父親でかつ成人している雅仁親王即位したことでその可能性否定された。これにより崇徳院政の望み粉々に打ち砕かれた。

※この「実権無き上皇」の解説は、「崇徳天皇」の解説の一部です。
「実権無き上皇」を含む「崇徳天皇」の記事については、「崇徳天皇」の概要を参照ください。

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