実権掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 03:05 UTC 版)
だが、1712年2月に皇帝バハードゥル・シャー1世が死ぬと4人の息子らの間で争いが起こり、3月までに長子ジャハーンダール・シャーがほかの兄弟アズィーム・ウッシャーン、ラフィー・ウッシャーン、ジャハーン・シャーを殺害し帝位についた。 一方、ジャハーンダールは帝位についたのち、堕落した生活を送るようになり、デリーの宮廷はすっかり乱れてしまった。アズィーム・ウッシャーンの遺児であるファッルフシヤルはベンガルに一人残されたものの、ジャハーンダール・シャーの打倒をうかがっており、同年4月17日に彼はベンガルのパトナーで帝位を宣言し、ジャハーンダール・シャーとの対決姿勢を見せた。ファッルフシヤルはジャハーンダール・シャーの軍と戦うため、ベンガルにおいて軍を召集し始めたが、彼はサイイド兄弟の助力を受けることにした。 同年末にファッルフシヤルがデリーに向けて進軍するなか、ジャハーンダール・シャーも大軍をもって迎撃し、翌1713年1月10日にアーグラ付近サムーガルで対峙した(第二次サムーガルの戦い)。この戦いについて、ハーフィー・ハーンはその状況を伝記で、「階級の高低を問わず、あらゆる軍人はファッルフシヤルの勝利に希望を見出した」と述べている。 事実、皇帝軍は士気が衰えており分裂状態であり、一日で三者連合軍に簡単に打ち破られ、ジャハーンダール・シャーは捕えられた。翌1月11日にファッルフシヤルはアーグラで即位式を挙行し、ムガル帝国の皇帝となった。2月にはジャハーンダール・シャーを宰相ズルフィカール・ハーンとともに処刑し、大勢の皇子らを盲目にして幽閉した。 ムガル帝国の皇帝となったファッルフシヤルは、即位後すぐにサイイド兄弟の協力に対し報い、アブドゥッラー・ハーンを宰相と財務大臣(ワズィール)に、フサイン・アリー・ハーンを軍務大臣(ミール・バフシー、軍総司令官)にそれぞれ任じた。また、後者はのちにデカン総督にも任命された。 だが、ハーフィー・ハーンはこの任命をファッルフシヤルの最も大きな失策とだと語っている。なぜなら、これらの職に任命されたかつての人物は、「大変責任のある要職で、かつての王たちがその高い地位を授けたのは、賢明かつ高潔な人物で、驚くほど忍耐強く、豊富な経験をもち、その資質が長い経験によって試された人物」、であったからである。 ファッルフシヤル即位後、サイイド兄弟は皇帝の即位に反対した貴族たち大量に虐殺するなど、宮廷の分裂を招くことを平気でした。
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