王国の実権掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/19 23:08 UTC 版)
1529年、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤが死亡し、ラーマ・ラーヤは宰相ヴィーラ・ナラシンガ・ラーヤとその後継をめぐり争い、前者の推した王弟アチュタ・デーヴァ・ラーヤが王となった。 だが、アチュタ・デーヴァ・ラーヤとヴィーラ・ナラシンガ・ラーヤはすぐに不仲となり、ヴィーラ・ナラシンガ・ラーヤはケーララ地方の領主らと組んで王に反乱を起こしたが、これは鎮圧された。 しかし、今度はラーマ・ラーヤにアチュタ・デーヴァ・ラーヤに対してクーデタを起こし、これは成功しなかったが、これにより王は実権を失った。 1542年、アチュタ・デーヴァ・ラーヤの死後、その息子ヴェンカタ1世が王位を継承した。だが、宮廷の実力者ラーマ・ラーヤはその継承に反対し、アチュタ・デーヴァ・ラーヤの弟にあたるランガ・ラーヤの息子サダーシヴァ・ラーヤを王として擁立するに至り、グッティにいた彼を迎えることとした。 1543年中頃までに、ラーマ・ラーヤはサラカージュ・チンナ・ティルマラを破って殺害し、ヴィジャヤナガルを制圧し、サダーシヴァ・ラーヤは即位式を挙げ、ヴィジャヤナガル王となった。だが、王国の実権は摂政となったラーマ・ラーヤとその弟ティルマラ・デーヴァ・ラーヤの手に完全に握られた。 1543年中ごろ、ラーマ・ラーヤはその支配を固めるため、甥のチンナ・ティンマ・ラーヤとヴィッタラ・ラーヤの率いる大軍をチャンドラギリ、ティルパティ、ブヴァナギリ、プドゥコーッタイ、マドゥライ、ティルネルヴェーリといった地域に向かわせた。
※この「王国の実権掌握」の解説は、「ラーマ・ラーヤ」の解説の一部です。
「王国の実権掌握」を含む「ラーマ・ラーヤ」の記事については、「ラーマ・ラーヤ」の概要を参照ください。
- 王国の実権掌握のページへのリンク